存在としての公園 第77回

「話せば分かる」は気のせい

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概要

知識が足りないのではなく、感覚を持ち合わせていないのだと思う。分からないのに不要にジャッジしないこと。


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機械文字起こしをもとに、内容を変えずに読みやすく整えたものです。

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8月23日日曜日、夕方5時です。今5時のチャイムが鳴ったり、鳥が鳴いたり、蝉が鳴いたりしている代々木公園からお送りしております。今日はどんよりした曇り空で、日中なんですが暗いですね。今日は昼から公園をやってたんですけど、公園が終わってちょっと一息ついてから、今という感じでございます。気温は過ごしやすいんですけど、昨日すごく雨が降った影響か湿度がすごくて、気温は高くないけど嫌な汗をかくような、そんな気候でございます。

昨日土曜日に、討論カフェというポッドキャストを僕はやってるんですけれども、討論カフェのイベント。価値観の交換をする、それが討論カフェっていう活動というか営みなんですけれども、その様子をポッドキャストで流していると。で、そういう価値観の交換をするイベントを日頃オンラインと福岡で開催してるんですけれども、年に数回、東京でも開催するということで、昨日はその東京対面開催でした。お題をもとに、それぞれ思っていること、感じていること、自分の価値観を出していく。何か合意形成をしていくとか、どっちの価値観の方がいいかなんてことを決めたりはせず、それぞれそんなことを感じてるんですね、そんなことを思ってるんですね、みたいなお話をしていく回なんですけども、昨日はすごく楽しかったですね。3テーブルくらいあって、そのうちの1つのテーブルに僕がいて、5人テーブルだったんですけどね、5人でお話ししたんですが。

どんなのが面白かったかな。AIとコミュニケーションを取って仲良くなっちゃう人とかいるけど、人間とのコミュニケーションに何か影響するんだっけ、みたいな話をしてる時に。チャットGPTをチャッピーって呼んだりするじゃないですか。ああいう道具を擬人化するみたいなことに対して反対だって言ってる人がいて、それとかはすごく面白かったですよね。信じられないと。絶対にチャッピーとか呼んでやるものかとおっしゃってましたけども、掘り下げていくと結構真っ当な理由で。むしろ擬人化することによって自分の気持ちが持っていかれてしまう、依存してしまう。本当に人であるかのように接することによって、そして自分を受け入れてもらえることで依存度が高まってしまうから、それを避けるために擬人化しないんだ、ってことを言ってました。だから擬人化するなんてよくわかんない、馬鹿らしいみたいな話じゃなくて、擬人化することで持ってかれちゃうから危険だよねっていう意味でやらないと。

そこまで聞いて、確かにそういう考えはあるなっていうか。実際持ってかれちゃってる人っていうのはたまにウェブの記事とかで見ますけど、チャットGPTと結婚した人とかね、恋愛してる人とかいるらしいじゃないですか。そこまでいっちゃうと、やっぱり生身の人間とのコミュニケーションにも相当影響してくるだろうなっていう感じはありますよね。

僕自身は、AIを擬人化するみたいなのを割とやらない派だったんですけど、ここ1ヶ月ぐらいですかね、するようになりました。精神的に依存する相手としてというよりかは、いろんなことを質問する、尋ねる上で。道具に向かって尋ねるときっていうのはグーグル検索に近いっていうか、単純に命令、これをただやりたいからこれを出力してくれっていうことを命令するんだけれども、擬人化するともう少し命令ではなくてコミュニケーションっぽくなる。僕のモードがね。だから結構ラリーとしてテンポよく行くなみたいなところもあって、そのリズム感のために擬人化してるっていう感じですかね。精神的に寄りかかるためというよりは、チャットの窓で会話をするのにリズミカルにやりたいみたいな、そんな感じがありますね。

あと音声入力とかも結構使うようになってきたんで、命令文を言葉で読むっていうのが割とちょっと違和感がある、ナチュラルじゃない。日常の会話の中で命令文を言葉にするってあんまないけど、喋りで「なんとかしてくれますか」とか言うのは自然じゃないですか。だから、それが人間ぽく返ってくると、自分はそれに対する返しが結構テンポよくいける感覚があるので、そういう意味で応答を人間ぽい口調で返してもらうように最近はしてますね。だから僕は持ってかれないタイプなんで、擬人化してもそこまで今のところ不具合はないですけど、確かにそのまま気持ち的にも依存しちゃって、AIは自分の気持ちを分かってくれるみたいになっちゃうと、ちょっと危ういのかもなとかは思ったりしますよね。でも危ういのかなとか思うけど、もう不可逆な感じもしますけどね。ここからAIが失速して、あまり影響しなくなってくるかといったらそんなことはなくて、影響力をますます強めていく一方だと思うので、上手に付き合っていくしかないかなというふうには思ってますね。

討論カフェ、何話したかな。「あなたが思うかっこいい大人を教えて」みたいなテーマもありましたね。あれは結構意見が割れてて。理性的な路線のかっこよさと、感情的とか直感的な路線のかっこよさみたいなので、結構意見が割れてた気がします。例えば理性的なかっこよさで言うと、ちょっとストレスの負荷が高いような局面において、感情的にならずに冷静に対応して、スマートな対応をしてその局面を乗り越えるみたいな人を見た時に、かっこいい大人だなと思うみたいな人もいれば、かたや、もうこの社会の規範とか、そんなことは一旦差し置いて、自分の信念に基づいて行動できる、発言できる人、貫いてる人はかっこいいっていう人もいたし。どっちでもないけれども、自分の言葉でちゃんと語られている人はかっこいいなと思う、みたいなことを言ってる人もいましたかね。

それは僕もすごく共感するというか。かっこいいかどうかで言うとちょっとわかんないですけど、でも自分の言葉で語ってるなって感じられる人が好きですね。受け売りの言葉を言ってる人とか、どっかで見つけた意見をカードバトルみたいに出してくる人、引用しかしない人ですよね。サルトルがこんなことを言っていて。それはサルトルがそう言っとったか知らんけど、君はどう思うんだっていうことだと思うので。もちろん自分の意見をサルトルに代弁させてるっていうね、ウルトラレア・サルトルみたいな感じだと思うんですけど。そうじゃなくて、やっぱ自分の言葉で語ってほしいなと思いますね。引用があってもいいので、引用だけで終わらないでほしいなっていう気持ちがあるというかね。

偉い人はこう言ったみたいな話って、それこそもうAIに聞けばいいっていうかね。これについてなんか言ってる哲学者いますかとか、これについて言ってる心理学の理論ってありますかって聞けば出してくれるわけだから。哲学研究者から出てくる言葉とか、その研究者から出てくる言葉ならまだしも、その辺の素人が「いや、心理学ではこれ」みたいなこと言われても、知らんがなっていう感じですよね。君はどう思うんだとやっぱり思ってしまうので。受け売りの言葉とか中途半端な知識で何か語られるよりは、知識よりもその人が経験してきたこととか、その人が今まで生きてきて蓄積されている感覚みたいなものを元に言葉にしてもらう方が、聞こうかなっていう気になりますね。その話ちゃんと聞こうっていう気持ちになれるなってなります。かっこいいとはちょっと違うかもしれないですけども、やっぱ自分の言葉で語ってるなって思うとき、すごい魅力的だなと思いますね。そんなお話をしました。

他にもいろんなお題で話したんですけど、2時間、そしてアフタートークというか、イベント終わってからもそのままちょっとおしゃべりして、2、3時間あっという間に時が過ぎました。昨日は本当、討論カフェデーって感じでした。朝は朝でそのイベントの前ですよね。イベントがお昼からあったんですけど、午前中は討論カフェののぞみさんと2人で、2人の回を収録したんですね。その回は、9月以降ですね、討論カフェをやっているビッグトゥリーという会社の1サービスで結構新しい取り組みをやるんで、その取り組みについて。またそれは9月に入って詳細はここでもお話できたらと思いますけども、なぜそのようなちょっとぶっ飛んだ施策をやることになったのかみたいなことを、結構2人で赤裸々に語っているみたいな回ですけれども、そういう収録をして。お昼、討論カフェをして、さらに夕方4時からはゲストを呼んで、のぞみさんと僕とゲスト、人類学実践者の水上優さんですね。今僕が「地に足」っていうアートコレクティブ、芸術祭に公園活動を提案していこうというようなことでやっておりますけれども、そのメンバーの水上優さんをゲストに呼んで、討論カフェ収録しました。って感じなので、朝から夕方までずーっと喋っている1日でしたね。

水上優さん回は、「あなたにとって逃げるとは」だったか。違うな。「逃げてしまうときは」「あなたが逃げるときは」とか、そんなテーマだったかな。逃げるということについて、結構いろんな角度から検討したりしました。結構面白い話になっていいんじゃないかなと思うんで、ぜひ討論カフェ、番組フォローして聞いていただけると嬉しいです。

蚊が多いですね。痒い。めちゃくちゃ痒いですね。夕方というのと、気温もちょうどいいみたいな感じと湿気といいね、そういう感じなんでしょうね。痒いですね。本当に、血ぐらい吸わせてやるから痒くするのをやめろって言いたい。そんな少量の血だったらいくらでもやるから、ちょっと痒いのを勘弁してほしい。最悪ですよね。人のものを奪っておきながら後遺症まで与えてくるっていうね。許しがたい。そんな気持ちでございます。

昨日、丸一日いろんな人といろんなお話をして、改めて、語り合うということ、言葉を介して人とコミュニケーションをするということ。個別に誰かに思ったっていうよりは、抽象的なところですよね。人と言語を介してコミュニケーションをするということはこういうことなんじゃないか、っていうのを、また自分の中でも再確認できたというか。話す前にもう決まってるっていうね。それが割と最近、僕の中でしっくりきてる考え方ですね。もう喋る前に、その人と分かり合えるか分かり合えないかが決まっていると。一般的なイメージでは、言葉を尽くして丁寧に向き合えば分かり合えるとか、もしくは分かり合えるまでいかないにしても、仲直りできるというか、近い関係になれるみたいな考えがあると思うんですけど、近い関係になれるかどうかはちょっと別軸なんで、なれるかもねとは思うんですが、分かり合えるか分かり合えないかで言うと、もう話し合う前に決まってるなって思ってます。

で、大きく二つあるかなと思ってるんですけど、一つは知識の話。今現在このような社会制度がどうのこうの、例えばあったとして、それについて語っているとしたら、なんでそれがあるのかっていう背景とか、その前はどうだったのかとか、いろんな背景知識があるのとないのとでは色々変わってくるということで、そういう知識っていう一つのものはありますよね。知らないからわからないっていう。説明をするといっても、その手前の手前の手前を説明するとなっていくと、もう講義みたいになっちゃって会話にならないみたいな。知識量が物を言うような会話であれば、どうしても勉強不足なのでこれはもうわからないなみたいなことってありますよね。一般的に、言葉を介して分かり合えないというか、わからないという時って、分かり合えないはちょっとニュアンスちゃうね、話を聞いてるけどよくわからないっていう時は、知識不足みたいなことが疑われると思うんですけど、そっちの方向ばかりじゃないよなって思うんですよね。

二つあると言いましたけど、もう一つの方向っていうのが、感覚としてそれを持っているか持ってないかみたいなやつ。感覚としてそれを持っているっていうのは、つまり過去にいろんな体験、経験をして、そこで感じたこと。そしてそれが今、自分の身体感覚として残っている。丸々な感じみたいなのがあらかじめあって、それが言語化されている。このように言語化されているということによって、「あ、分かる分かる」ってなるみたいな。感覚が先にあって、そこに後から言葉が乗っかって、「あ、それ分かる」ってなるみたいな。感覚がないのに言葉でいくら説明しても、うーん、なんかちょっと分からんな、みたいなことってあると思うんですね。

今朝の朝礼でも話したんですけど、例えば公園活動を僕がやってますので。まず、知らない知識の話ですよね。まずその存在を知らないとか、何をしているかよく知らないっていう状態だと、公園活動とか聞いたことがないから分からないっていう、さっきの知識の話になると思うんですけど、そうではなくて。存在としての公園というコンセプトで、自分自身が公園のような存在になりうるのかという実践であると。だから自分が例えばこの代々木公園でレジャーシートを敷いてたときに、そのレジャーシートの中は、とか、レジャーシートの近辺は、公園になりうるのかということをやってるわけですよね。ちょっとあんまり細かい説明は、さっと言うわけですよ。で、それは最もコアだというか、分かりやすいからその活動をしているんですけど、晩餐会ですね、レンタルキッチンに集まって料理を作って食べるみたいな活動も公園活動として呼んでいるし、去年まではいろんなことをもっとやってたわけなんですね。で、それを公園活動としてやってたんですけど、今もやってるんですけどね、なーんかちょっとピンと来ないですね、っていう人がたくさんいらっしゃると。好き嫌いはありますよ。意味が分かるんだけど、全然自分は興味ないです、は、いいんですけど、意味が分からないって人がやっぱりいるわけですよね。説明しても説明しても。それっていうのは多分ね、感覚として、公園で遊んだ感覚みたいなのがないのかなと思うんですよ。

よく説明するんですけど、公園って、今も僕、後ろを見ると、20代ぐらいの女性たちがレジャーシート敷いて集まってたりとか、その向こうでは30代ぐらいの男性2人が一緒に歩いてたり、一人で芝生に座ってる人もいれば、パソコン広げて、レジャーシートで仕事なのかわからないけど、パソコンで作業してる人もいれば、もっと向こうの方だとキャッチボールしてる人も見えるし、親子で虫捕りしてる人もいますね。虫捕り網を持った子供がいて、それを見守っている、お母さんなのかな、がいるみたいな。この人たちって全部、属性も違うし、おそらくやってる仕事だとか年収も違うだろうし、出ている学校も違うだろうし、住んでる場所もいろいろバラバラだろうし、っていう結構バラバラな人たちが、今この僕の後ろにはいるわけですよね。そういう全然違う人たちが、お互いを邪魔し合うことなく、この公園の場の中で包摂されている。いろんなバックグラウンドの人たちが、いろんな動機の人たちが、いろんな楽しみ方でこの一つの空間をシェアして、共存している。

社会がこういう場所であればいいのに、っていうのが僕のすごい思想なわけですよ。社会ってもっと公園みたいな感じだったらいいのになって。今ってでも、誰が正しいかとか、すぐ自分と違うものを攻撃するじゃないですか。今この公園でそんなことは起こってないわけですよね。なんでレジャーシート敷かないんだって切れてる人はいないし、なぜ虫捕りをしないんだって怒ってる人はいないわけですよ。みんなそれぞれ、自分が、とか自分が関係する人たちと楽しくやっていて、他の人たちを邪魔せずに共存している。場合によっては挨拶が交わされることもあるかもしれないですけど、今のところそんな感じはないですけど、挨拶が交わされたりとかして、緩やかな交流が生まれたりもするかもしれない。すごく平和な空間になってるなと思うんですね。

社会とは公園のようであるべし、っていうのが僕の究極の考えなんですが、なかなかそうはいかないよねっていうことで、せめて僕の半径5メートルは公園のような場所が作れるんじゃないかってことで。このレジャーシート、5メートルもないんで、半径2、3メートルは公園になるんじゃないかとか、晩餐会の時であれば、そのレンタルキッチンの半径何メートルかわかりませんけども、10メートル、20メートルの公園になるんじゃないかっていうこととか。ちょっとこれね、カメムシがいますね。遊んでいった。よし。何の話でしたっけ。まあ、公園になるんじゃないかと。公園のような場所が作れるんじゃないか、ということ。そして、物理的な公園と違って、口の中に何か入ったな。物理的な公園と違って、僕自身が公園的なる存在ということであれば、移動もできると。全国、全世界、いろんな場所で、その自分の半径何メートル、何十メートル、公園のような場所が作れるんじゃないか。そして、このようなポッドキャストだったりとか、オンラインの上水公園だったりとか、そういった場所を通じて、距離を超えて、いろんな場所に公園のような場を出現させることができるんじゃないか、ということで、この活動をやっているわけですよね。

さっき、いろんな人たちがここに包摂されている、共存しているって話をしましたけども、その感覚っていうのを、公園で結構しっかり意識して、周りを見たりして遊んだ経験がないと。「ああ、公園ってそうですよね」って。それを、物理的な公園じゃなくて、人間がその存在として公園的な場を作り出せるのか、僕がいることで公園のようになるかどうかっていうことを実践しているんだな、「ああ、なるほどね」って分かる人は分かると思うんですけど、ちょっと何言ってるか分かんないなって人も、やっぱりいると思うんですよね。公園っていう、思いっきし分かりやすいモチーフを用いているわけですよね。多様な人たちが包摂される場を、みたいな話をしてなくて、公園に来てくださいと。公園に来たら、みんなそうなっちゃってるじゃんっていう。物理的な世界で、今、そのような景色が目の前で広がってるわけですよ。このような景色って良くないですか?っていうことを言ってるだけなんですけど、それがいまいち分かんないっていう人は、多分、経験として、感覚として、公園でいろんな人たちが包摂されているっていうのを実感したことがないってことだと思うんですよね。

公園にあまり行ったことがないのかもしれないし、公園に行っても周りの人のこと見てないのかもしれないし、公園のような、そういう包摂されている感じがむしろ自分は嫌だ、とか思ってる人もいるかもしれないし、理由は分からないんだけども、この公園の、いろんな人が包摂されている感じ、いいよね、みたいな感覚が、多分自分の中にないと、今の話もちょっとピンと来ないってことだと思うんですよ。

あとは、実際僕の公園に一回来てみて、別に何にも起こらんな、何なんだって言って帰って行くというか。何も起こらないんですよ、実際。記念に来た方とかね、いると思うし、なかなか来れない人、遠いとかタイミングが合わないとか、来れない人もいると思うんで、そういうのとはちょっと別で、楽しみにして来たけど、別に何にも起こらなかったな、もう二度と行かなくていいや、って思う人とかっていうのは、おそらくさっきの、公園っていう場所のことはあんまり感覚として持っていない。代々木公園に来て、何か起こるかなと思って、何も起こらないじゃないですか、代々木公園で。公園なんだから。

自分で何か起こすしかないんだけども、公園は何もしてくれないので。公園はただ、自由に過ごしていいですよと。火を使うなとか、やってはいけないことがいくつかあるだけで、自由にどうぞと。球技してもらってもいいし、マラソンしてもいいし、おしゃべりしてもいいし、お弁当食べてもいいし、っていうような自由な場所なんだけども、公園が私に何をしてくれるのかな、って思って来てる人とかからすると、僕の公園に来て、何も起こらなかったな、つまらなかったな、って帰っていくことですよね。だからそういうのは、やっぱり感覚として、公園っていう場所がどういう場所かっていうのを、知識としてというよりは、感覚としては持ってないんだろうな、と思うんですね。

今、公園を切り口にしましたけども、もう少し別の切り口で言えば、例えばコミュニティというか、人との関わりみたいな話。めちゃくちゃ分かりやすい、単純化した話でいくと、田舎の地域コミュニティ。ご近所さん、顔も家族構成も職業も、なんならちょっと財政状況も筒抜けで。あそこのお父さん、失業したらしいよ、とか、あそこの家、離婚したらしいよ、とか、あそこの息子さん、学校でちょっとトラブル起こしたらしいよ、とか、そういうのが全部筒抜けになっちゃうような、すごく濃いネットワークみたいなのが、例えば田舎の濃いネットワークだとすると、逆に東京ど真ん中みたいなとこになると、誰も自分に関心を向けない。新宿駅のホームとかを意識してもらうと、行ったことある人とか分かると思うんですけど、お互いを人間として認識してないですよね。景色の一部になっていて、お互いを人として認識していないレベル。つまり、自分は人間として思われていない。そのホームにいる知らない人から、透明人間になっているってことですよね。

だから、バチバチに濃い、全部筒抜けのネットワークと、誰からも関心を寄せられない透明人間っていう、この両極があったときに、両極じゃないんだよなって思ってる人っていると思うんですよ。理想は両極じゃないんだと。田舎の濃いのはやだけども、透明人間っていうのもなんかやだなと。やっぱりそれは寂しいし、かといって田舎に行って濃いのもめんどくさいし。緩やかに挨拶はしたいんだけども、挨拶したくないときもあるし。そういうときに、時々挨拶をしに行ける場所があったらいいな。そういう人にとって、僕の公園とかって。すごい多いと思うんですよ。

普段、例えば東京で、もう仕事と、職場と家の往復が中心になっちゃってて、実質、職場では機能を果たすある種の歯車になっていて、歯車か透明人間かの二択の生活を行っていたとしたら、たまに人間らしいコミュニケーションもしたいなと。公園に来て、誰かに会って、こんにちはって、今日は暑いですねっていう何気ない会話をするだけで、すごく潤うというかね。人間に出会えたな、みたいな時間を過ごせる。でも、これがいつもになるとしんどいから、自分は月に一回来ようかな、とか、2週間に一回来ようかな、とか、毎週来ようかな、やはり自分は1年に1回でいいんだ、とか、それは人それぞれですけども、たまに自分のペースで挨拶できる場所がある。

挨拶っていうのはちょっと比喩で言ってますけど、ちょっとした身の上話、ライトにいろんな話ができる場所がある。自分の職業とか明かしたくなければ明かさなくていいわけだし、田舎のコミュニケーションみたいに全部が筒抜けになっていくわけでもないし、コミットメントが求められるわけでもない。一回公園に来たからには、もう頻度高く来てくださいね、とか、頻度高く来てる人の方がランキングは上ですよ、なんてことはないわけですよ。初めて来る人も、10回目の人も、100回目の人も、初めましてだったら初めましてだし、2回目もあれば、また会いましたね。ちょっとご近所付き合いみたいな、ちょっとした会話をするんだが、日頃から付き合いがあるわけではないっていう。透明人間でもなければ、ズブズブの、バチバチのコミュニケーションでもないっていう、そういう緩いやつ、ちょうどいいんですよね、っていう人がいると思うんですよね。

だからそれも、感覚として、都会の透明人間っていうのもなんかそれはそれで違うんだよなっていう感覚を得たとか、田舎でズブズブの人間関係があって、それはやっぱり違うんだよなって体感として得ている人が、もっと中間の何かってないかなって色々模索して、どれも違うな、公園活動っていうこの距離感、あるかもな、みたいな。やっぱりそういう試行錯誤をして感覚として持っている人、それぐらいの関係、ちょうどいい関係がないかな、みたいな、ちょうど良さを模索してきた感覚を持ってる人だったら、この場所がちょうどいい、なんてこともあり得るのかもしれないな、と思うんですよ。

ところがやっぱり、地域コミュニティのズブズブがやっぱり人間関係ですよね、って思ってる人からすると、この公園活動の人間関係、やっぱり物足りない、なんかあっさりしてるな、ってなると思うし、透明人間でいたいんですよ、誰とも関わりたくないんです、って思ってる人からすると、この公園で挨拶するのすら億劫だって人もいると思うから、そういう人はやっぱり感覚としては持ってないわけじゃないですか。透明人間でありたいとか、ズブズブでありたい、って思ってる人からすると、なんか都合よく時々挨拶したいんですよね、っていうのは中途半端に見えたりだとか、それの何がいいんですかって、要は分からないっていうことが起こるわけですよね。分かんないんですよ。それをいくら、今みたいに一生懸命、こういうことなんですよねって説明したとて、もう説明が分からないんじゃなくて、感覚として分かってないから分かんないっていう、そういう話ですね。

で、おそらくこのポッドキャストを結構長い回数聞いてくださってる方、例えば10回以上聞いてくださってる方のうち、感覚的に分かるよって思って聞いてくださってる方とかは、そうそうってなると思うんですけど、初めてこれを聞いた方とかで、ちょっと感覚的にそれを持ってない方からすると、ちょっとこの人何言ってるかさっぱり分かんないんだろうし、もしくは、何言ってるかさっぱり分かんないなって楽しんでる方も中にはいるかもしれないですけども。感覚として持ってないと、要は何を説明しても、もう分からないんだ、っていう話ですね。それが最近思っていることでございます。

例えば、ちょっと昨日の話に戻りますけど、ある人が、毎晩、月を見るだけで泣いちゃうんですって言ってる人がいて。月の、何なんですかね、美しさなのか、言葉で言い表せない何かがあるんだと思うんですけど、月を見ると、ネガティブな意味じゃなくて、感動するとか、圧倒されるというか、泣いちゃうんですって。毎晩泣いてるっていう人がいて。泣いてるというか、涙が出ちゃうっていう人がいて。それなんかは、僕、月を見て泣いたことがないので、感覚として分からないわけですね。それは自分の中で感覚を持ってないから。月を見て泣くっていうのは、言葉の意味として分かるじゃないですか。月を見た人が、目から涙を流しているんだなと、この方が、っていうのは分かるんだけども、ああ、分かるとはならないわけですよね。ほほう、泣く、涙が出るんだな、どうしてかな、ってなるっていう。

だから、感覚的に分かっているか分かってないかってことが、分かるためにはとても重要であると。だとすると、いろんな経験をするのが重要っていう話にもつながってきますよね。いろんな経験をしてないと、体験がないから感覚が育たないし、その感覚がないということは、誰の話を聞いても、言ってる意味は分かるって状態まではいけるんだけども、でも、全くそれがどういうことなのかはやっぱり分からないっていうか、質的には分からないってことが起こっちゃうんで。そういう意味で、やっぱり体験を増やしていく、いろんなことを経験していくってことは、すごい重要ですよね。全く同じ体験じゃなくても、これに近いかな、みたいな感じで置き換えることもできるじゃないですか。それは分かるとは言わないかもしれないけども、もしかしたら、こういうのに近いのかもしれないな、みたいな想像をするのにも、感覚を持っていると思うんですよ。だから、自分の感覚っていうのがしっかり育っていないと、いろんな言葉を集めたところで、結局何にも分からないなっていうことになるのかなと思うんで、やっぱりいろんな経験を積んでいくってことが、すごく重要。

そして、言葉はAIがいくらでも出力してくれるんで、自分が言葉的に分からないことは、AIに聞けば言葉で説明してくれるわけで。なるほど、A=Bで、B=Cで、A=Cなんですね、ってことは、頭で分かればそれでいい、記号的に意味が分かればそれでいい、っていうようなことであればそれでいいんだけども、それがどういうことなのか全然質的に分からないってなっちゃうと、せっかくのAIの出力も、いまいちピンとこないってことになるのかなと思うんで。結局やっぱり、経験が物を言うというか、経験を積み重ねて、感覚としていろんなものを持っていることによって、言葉をもらったときに、その感覚と結びついていくっていうことなのかなと思うので、たくさん経験していこうよ、と思いますし、体験していったほうがいいんじゃないかな、みんなって思いますね。ずっとスマホとにらめっこしてないで、体験の量を増やしていく。そして体験したことを、噛みしめるというか、しっかり味わう。どういう感じがしているかっていう、自分が今、五感で感じていることをしっかり味わうってことをしていかないと、スッカスカな感じになっていくだろうな、ってことを思っているわけですね。

このことは、僕にとって、いろんなものを意味していて。このポッドキャストでは、ひたすら自分なりの言葉で、自分の感覚を用いて、それを言葉にしていくってことをしていきたいな、と思っています。

あんまり、誰々さんのこういう理論に基づくと、公園活動ってこういう意味があって、みたいな、そういう知識ベースの話ではなくて、こういうことがあって、とかっていう、その事例から、自分が感じたことを踏まえて、とか、そういうふうに感覚的に喋っていくっていうことを、すごく大事にして、言葉にし続けたいなと思っているし。けれども、目の前に現れた人に、「公園活動って何ですか?」って聞かれたときに、あんまり一生懸命、説明しないようにしよう、とも思っている。説明するだけして、何も伝わらなかったときの、結局それ、僕の説明の問題みたいになってるけど、あんたに、その感覚がないだけじゃないの?みたいなことに着地するのが、すごくめんどくさいというか。説明しても無駄な人に、説明したくないという気持ちがありますね。それは、単なる怠惰とか、嫌な奴って思われるかもしれないですけども、今日説明したような、感覚として持っていない人に説明しても、多分伝わらない。さっきの、田舎と都会のコミュニティの話、もしくは、公園ってこういう場所ですよね、それを物理的な公園ではなく、人間である自分が公園のような場を作る、自分は公園のような存在になれるか、という活動なんです、みたいな。この2つで分からなかったら、多分分からないんで。

もしくは、実際に来てもらって、「ああ、なるほど、何か分かりました」ってならないと、分からないんだと思うんですよね。それはもう、じゃあ説明の量を10倍にしよう、とか、そういうことじゃないと思うんで、分からないんだな、で終わればいいかな、と思っているという今日この頃でございます。

それは、自分が分かってもらうという、分からないと言っている相手に自分のことを分かってもらうという場面においての振る舞いとして、そうしていこうかな、と思っているということなんですけど、かたや、今度、自分が分からない場合の時はどうかな、っていうのは、また考えていかないといけないと思っていて。例えば、月を見て泣く、毎日泣いているという話を、分からないわけですね、感覚として。それを、ジャッジしないってことだと思うんですよ、大事なことは。だから、僕が分からない側にいる時っていうのは、やっぱりジャッジしない。月を見て泣いているの?どういうこと?みたいに、バカにしないとか、分かってもいないのに、月を見て泣けるって素敵ですよね、みたいな、それがどういうことなのか分かっていないのに、勝手に判断しないってことは、気を付けたいなと思いますね。難しいんですけどね。ついつい判断しちゃうんですけど、でも、なるべくその判断を留保して、どういうことなのかなって、じっくり考えてみる。判断せずに止めておくってことを、意識したいなと思いますね。

感覚として持ってるか、持ってないか、みたいな話だなと思った時に、自分の人生で経験できることとか、見たり聞いたり感じたりできることって、すごい限られてるわけじゃないですか。例えば、キルギスに僕は行ったことないですけど、キルギスの風はどんな風が吹いているのか、どんな気候で、どんな人たちが住んでて、どんな人口密度で、街並みがどんなんで、とか、僕はキルギスのこと分からないので、全く想像がつかないんですけど。でも、もし僕がキルギスに行ったことがあれば、そのキルギスで感じた感覚っていうのがあり、「キルギスですね」って、自分なりの感覚で想起できるんだけど、もう分からないから、やっぱりそこはもう分からない。でも、キルギスを判断しない、みたいな、そういうことですよね。そういうことを、やっぱり意識していかないといけない。

今、キルギスみたいなことを言いましたけども、別に身近なところでも、そうだと思うんですよ。子育てとか。僕は子供がいないから、子育てをしたことがないので、子育てを、やっぱり判断しない、とか。出産とかね、一生経験できないですから。出産するということはどういうことなのか、みたいなのは、もちろん興味を持って、どういうことなのかなって、経験した人の経験談を聞いたりとか、そういうことは興味深く話は聞いていきたいと思いますけども、出産ってこうですよね、みたいに、分かったような口を利かないというかね。分からないんだから、分からないなりの、判断をしない。今まで聞いた話では、こういうことがあったな、にとどめておくということができるかどうか。

やっぱり自分が体験したこと、自分が見たもの、感じたこと、そういったことから、しかもそれを、世界の真理かのようにではなく、自分はそのように考えたとか、自分はこのように感じたんだと、主語をちゃんと「私は」ということにして、語れるようにしていきたい。まあ、便宜上ですね、「私たちは」とか、「人類っていうのは」とか、主語が大きくなっちゃうんですけどね、っていう言い方をすることってあるとは思うんですけども、でも、認識として、それは「私がただそう思っているだけで」っていうのを、忘れないようにしないといけないなと。それは、私のこの感覚から、経験から、きているんだということ。それを絶対忘れないようにしたいなと思っているし、そういう人が増えていったら、他人のことを決めつけて、みたいなことをする人が減っていって、いいんじゃないかな、なんて思ったりはしますよね。

とにかく、感覚的に持っていないものは、分からないんだということ。でも、分からないからといって開き直るのでもなく、分からないなりの、リスペクトというか。分からないのに勝手にジャッジするっていうのは、すごくリスペクトのないことかなと思うので、ちゃんとリスペクトを持って、分からないなりに接するということが。もしくは分からないなりに、その情報を受け取って、判断せずに、保留したまま、その情報と向き合っていける。そういう訓練を、積んでいかねばならんな、というふうに思う、今日この頃でございます。

まあ、話せば分かるというのは、幻想であるという、そういう話ですね。もうすでに、感覚的に分かっていることを、言語的に聞くことによって、答え合わせのように、ああ、そうですよね、分かります、っていうことがあるだけで、分からないことは、言葉を尽くしても分からないんだっていう、そういうお話でした。とはいえ、どこかの感覚にヒットして、ああ、なるほど、そういうことだったんですね、って、公園活動のことが伝わるかも、というのは事実あるので、やっぱり、いろんな感覚から、公園活動ってこうなんですよ、っていうことは、このポッドキャストで言葉にしていきたいなと思っています。そして、対面で、「公園活動って何なんですか?」とか言ってくる質問に対しては、一言、二言で終えようと思っております。

そうですね、これも朝礼で言った例題ですね。作務衣を着ている。僕、作務衣を着ているんですけども、なんで作務衣着てんだ、みたいなことって、初めて僕のビジュアルを見たときに思うわけですよね、多くの場合。なぜなら、東京を歩いていて、作務衣の人に出会う確率って何パーセントなんだっていうね。100人に1人も着てないわけじゃないですか。100人に1人は着てるのかな。いや、もうちょっと着てる人いるのかな、東京で。わかんない。けど、1パーセントも着てないわけですよね。1パーセント以下の服を、ずっと着ているってことは、何かあるなって思うわけじゃないですか。なんで作務衣着てるんですか?って思う。で、そのときに理由を説明すると、なるほどってなる人とならない人がいるわけですよね。これも、まさに感覚として、その感覚を持ってるか持ってないかっていう話で説明がつくと。

作務衣を今着ている理由は、制服として着ていますと。もう、作務衣の人みたいなイメージがしっかりついているので。この5年くらい作務衣着てますけど、6年くらい着てるのか。作務衣の人っていうイメージがついてるんで、特にこの公園活動をするにあたって、作務衣着てたら、あっ、あそこに上水がいるなってことが分かる。目印になるんで、もう制服として作務衣を着てます、毎日作務衣着てますっていう話。これはまあ、そうだよね、なるほどって分かると思うんですけど。

でも、作務衣を着始めた理由ですよね。僕が作務衣を着始めた理由って、すごい偶然で。コロナ禍の2020年だったと思うんですけど、友達がね、お寺の住職をしていて、住職を辞めてたのかな、寺の息子で、その寺に遊びに来てくださいよ、って言われたんで、お寺に遊びに行った時に。当時僕は、髪の毛を切ったばっかりっていうか、唐突に坊主にしたばっかりだったんですよね。坊主じゃなかったんだけど、坊主にしたばっかりと。だから、持ってた服っていうのは坊主仕様じゃなくて、なんかちょっと、坊主でこの服装しっくりこんな、みたいなのが自分の中であるなという服しか持ってなかったんですよね。でも、そういう服しか持ってないから、違和感あるなと思いながら、坊主でもその服を着てるっていう状態で。で、その寺に行った時に、友達が、坊主なんかこれ似合うと思いますよ、って言って、袈裟を着せてきたりだとか、作務衣を着せてきたりとかしたんですよ。で、その作務衣を着た時に、これめっちゃいいじゃんってなって。めっちゃいいじゃんっていうのは、作務衣のビジュアル、僕はかっこいいなと思ったし、着心地がすごく良くて。着心地もいいし、かっこいいし、これめっちゃいいじゃんってなって、で、その場で、とりあえずネットショップで作務衣を買った。それが最初だったんですよね。

で、そっから、この6年ぐらいの間、時々作務衣を着ていくうちに、作務衣の人みたいなイメージがついていき、イメージがついていくと、作務衣を着て行った方がいいのかな、ってことになり、気付けば公園活動も始まり。てか今、東京に引っ越してくるタイミングでは、服を捨てて、アウターは作務衣しかないっていう状態で来ましたんで。冬用の作務衣と、夏用の作務衣、あとは全部インナーですみたいな、そういう状態で東京に出てきましたんで。今文字通り、Tシャツで出歩くこととかは、ちょっとコンビニに行くときとかね、あるんですけど、基本的にはもう作務衣しか持ってないっていう状態になっちゃってるわけですね。

その、作務衣を着始めたときの話ですよね。寺で作務衣を着て、あ、作務衣いいじゃんって思って、作務衣を買う、みたいな話をしたときに、いや、ちょっと全然意味わかんないですけど、別に作務衣、そこで買わないでしょ、とか、いやいやいや、作務衣着ないでしょって、ちょっとわからないですっていう人いると思うんですね。これが、まさに感覚として持っていないっていう話です。何の感覚を持ってないかっていうと、3つぐらい方向があるかなと思っていて。一つは、作務衣のビジュアルを、かっこいいね、とか、いいね、美しいねって思うか思わないかですよね。美しいねって感覚を、作務衣に対して持ってるかどうか。これを持ってたら、作務衣を買ったって話も、ああ、いいんじゃないですかっていうことになると思うんですよ。そんなに違和感ないと思うんですよね。

で、もしくは、作務衣の着心地を知っている人。旅館とかの寝巻が作務衣みたいな旅館とかも、たまにありますけども、ああいうので作務衣を着たことがあって、作務衣いいですよね、着心地いいですもんね、って言われて。作務衣の機能性っていうのかな、そういう魅力を知っていて、ああ、作務衣買う気持ち分かります、いいですよね、っていう感覚を持ってる人もいるかもしれない。もしくは、作務衣は別に美しいとも思わないし、着たこともない、もしくは着たことあるけど、別に何が着心地がいいのかも分かんない、機能性もよく分かんない、って思っている人がいたとしても、ファッションにおいて、日頃、自分が着たい服を着ればいいと思っている人、自分が着たいと思った服を着るのが一番いいよね、って思ってる人なんかからすると、ああ、作務衣を着たいと思った人は、作務衣を着ている、いいじゃん、っていう感覚があると思うんですよ。着たい服着たらいいじゃん、っていうね。

だから、この3つのどの感覚かがあれば、さっきの、寺に遊びに行った時に作務衣を着せられて、いいなと思って、作務衣を着て、それから作務衣を着てるんです、みたいな話は、別に何の違和感もなく、ああ、そうだったんですね、で、しっくりくると思うんですけど。そういう話も、うーん、ちょっとなんか分かんないな、ってなっちゃうのは、もう説明の問題じゃないっていうね。感覚として、作務衣の美しさが分からないとか、作務衣の機能性が分からないとか、服って別に、着たい服を着るとかじゃなくて、TPOっていうのがあってですね、みたいな、誰にどう見られるかで服を選んでる人からすると。確かに、作務衣を着てる人も街の中にいないから、変な目で見られるわけですよね。その変な目で見られるっていうことを、変な目で見られたい人なのかな、みたいに、うがった目で見ちゃうとかもあるかもしれないですよね、僕のことをね。結局、自分が持ってる感覚で、その対象と向き合っちゃう、っていうことなのかなと思うんで。

やっぱり、どこまで言葉を尽くしても、伝わらんものは伝わらんなってことは思うから、あんまり一生懸命、特に目の前の人に対して、説明しないようにしようかな、と思ってますね。不思議な話ですよね。目の前の人にこそ説明した方がいいんじゃないか、って思うかもしれないんですけど、分かんない人に対して一生懸命説明するって、結構拷問だと思うから、さらりとね、分かんなそうだな、と思ったらスッと引けるような。押し売りをしないというか、圧をかけないように気をつけたいな、という意味で、あまり面と向かって説明しすぎないように、気をつけたいなと。説明は、このポッドキャスト、一人ポッドキャストは、自分が喋りたいだけ喋ってやっていこうかな、と思ってますんで、一生懸命言葉を尽くすっていうのは、ここでやってますんで。ぜひこのポッドキャストを聞いていただけたら、僕の一生懸命っていうのがここに録音されてますんで、ぜひ聞いていただけたらと思います。

はい。というわけで、言葉にするということ、言葉で何かを伝えるということ、分かる、分からないということについて、今日はお話ししました。本日は以上です。

公園活動、継続していくために、メンバーシップっていうのをやってます。メンバーシップ「存在としての公園」っていうのをやっております。応援してくださる方は、メンバーシップにご登録いただけると嬉しいです。概要欄にあるフォームから、ご登録ください。そして、何か僕に質問とか、悩み相談とか、これについてどう思いますか?とか、何か質問とかお悩み相談あれば、お便りフォームありますんで、そちらも概要欄から気軽にお送りいただけたらと思います。匿名でもお送りいただけるようになってますんで、ぜひ、何か気楽に送っていただけたらと思います。

そんなとこですかね。あとは、毎週レジャーシート敷いて、最近だと代々木公園にいることが多いんですけども、代々木公園にいたり、9月は兵庫県豊岡市に行ったり、10月は京都の方に行ったり、とかって感じで、いろんな場所でレジャーシート敷いて、公園のような場を作っていけたらと思ってますんで。田舎のズブズブでもない、都会の透明人間でもない、なんとなーく気が向いた時に、誰かと挨拶を交わせるような、ちょっとした身の上話をできるような関係性、そういった場がいろんな場所に作っていけたらな、と思ってますんで、どこかで、何らかの形で関われたら光栄でございます。それでは、ご安全に。ご視聴ありがとうございました。