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概要
バンドの練習後、カフェでバンドメンバーと公園活動について語った。「説明しすぎない」という気づきを考察する回。公園活動の意義を言語化しようとしてきた2年間、どれもしっくりこなかったのは「本人が自ら言語化すること」への違和感だったのかもしれない。
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機械文字起こしをもとに、内容を変えずに読みやすく整えたものです。
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最近は配信日に収録するっていうような感じになっちゃってますね。タイムリーに今思っていることが今日公開されるっていうのはいいなという反面、今日撮って今日編集して出すみたいな作業が挟まるので、その日中にトラブルが起きて緊急対応しないといけないということができた時に、配信が滞りかねない。結構リスキーなスケジュールでやっちゃってるなっていうのもあって、収録のタイミングとかを調整したいなと思いながらも、福岡出張以降いろんなことが後手に回っていて、ずっとこの締め切りギリギリでいろんなものに対応しているというような日々が今続いてますね。
1月26日月曜日、朝7時20分です。朝礼が終わって、そのまま収録しているところです。週2回、月曜日と金曜日にこの番組は配信しておりますけども、今だいたい30分とか40分ですかね。なので週70分80分ぐらいの、60分から80分ぐらいのお時間、配信させていただいておりますけども、もし「もっと聞きたいよ」って方がいらっしゃったら、朝7時から7時15分に、15分間毎朝Xのスペースで生配信みたいな形で、この喋りを喋ってます。こんな感じで歩きながら。なのでよかったらそちらも聞いていただけると嬉しいです。
朝起きるのは難しいよっていう方、もしくは過去に遡りたいよって方は、ぜひメンバーシップに入っていただけると、特典でその朝礼の音声が全部、第何回からか忘れたけども、もう300分ぐらい上がってるのかな、朝礼がアップされてますんで、気になる方はぜひそちらも聞いていただけたらと思います。
昨日、バンドの練習だったんですよね、東京で。去年の秋頃に結成した「ご安全に」っていうバンドね。ポッドキャストを通じて出会った、ここ数年で出会った東京近辺にお住まいのお友達と一緒にバンドしてますね。僕は歌を歌わなくていいというか、今まで僕がやってたバンド、福岡でやってるバンドっていうのは、僕はギターボーカルを担当していて、あまり歌を歌うことが好きではないので。好きではないし得意ではないしっていう、じゃあなんでやってんだよっていうぐらい歌うことがそんなに好きじゃなくて、うまく歌えないからすごくコンプレックスがある。
下手なことってあんまりやりたくないじゃないですか、一般的に。だからあんまり歌はうまく歌えないのに人前で歌うという、決して心地よくないことをやっている感覚がありますね。でも曲を作ったり、みんなで演奏したりするってことはしたい、いい曲を作りたいっていう気持ちがあるし、みんなで演奏したいっていう気持ちがあるっていうので、相殺されて、わけわかんない感じになったんですね。歌いたかないが演奏はしたいっていう。その複雑な気持ちでずっとバンド活動を続けているんですけど、この東京の「ご安全に」っていうバンドは、僕はギターなんで歌わなくていいんで、すごく楽しく、本当に遊んでるような気持ちでやれるから、気楽でいいなと思ってます。
昨日スタジオが終わって、メンバーで食事に行った後、さらにもう一軒行けますかみたいな感じになって。というのも、スタジオは夕方5時ぐらいに終わって、そこから食事に行ったから、一軒目を出たのが7時過ぎとかだったんですよね。だからもう一軒ぐらい行けそうですねってことを言って、メンバー何人かは帰ったんですけど、残ったのが、メッシュワークという会社をやられている、「そろそろ東京ネイティブ」というポッドキャストをやられている水上さんですね。そして最近は「いつになったら話せるの?」というポッドキャストをやっているヤマイモさんですね。水上さんとヤマイモさん、他のメンバーなんですけど、その2人と僕の3人で渋谷のカフェに行きました。
「人間関係」っていうね、キャッシュオンリー、現金オンリーのカフェ、バーみたいなところに行って、そこでおしゃべりをしてたんですけど、そこでは結構、公園活動の話とかもして。水上さんは今、僕と一緒に芸術祭を目指すプロジェクトとかもやっていて、公園活動で芸術祭に出展しようっていうプロジェクトを一緒にやっているのもあって、そういう公園活動の話になったんですよね。ヤマイモさんはよく公園に、僕がレジャーシートを敷いてるときに遊びに来てくれたりとかするから、共通の話題としてその公園活動のことを結構深掘りしていったりもしたんですよね。
そのときにすごく腑に落ちたのは、説明しすぎないみたいなことなんですよね。水上さんはたまたまその日持っていた資料に、キリスト教の教会の、誰か講演会に来られるか何かは分からないですけど、そういうのの紙の資料が手元にあって。その資料とかを見ながら、見てくださいこんなこと、こんな感じなんですよってことで、イエスはぶっ飛んでるみたいな話をしながら、ぶっ飛んでるんだけど、そこからその本質はこういうところがありますよね、みたいな話をしてたんですよね。
で、めちゃくちゃぶっ飛んでますよねみたいな話をしてたら、なるほどって思ったのは、結局「なぜなら」っていうことはあんまり語られてないと。「なぜなら」っていうことは語られてないけど、「こうします」とか「これでいきます」っていうことは結構インパクトのある表現で打ち出されている。それについてきた仲間たちがあれやこれやと言語化して今に至るというか、本人があんまり細かいこと説明してないっていうか。それがなるほどと思いました。
先日、討論カフェっていうポッドキャストをやってる会社、まあ会社がやってるポッドキャストが討論カフェなんですけどね、ビッグトゥリーっていう会社ののぞみさんと僕とスタッフとで、会社の仕事の勉強会を2ヶ月に1回とかやったりするんですけど、その時の勉強会のラストは交流も兼ねて、みんなで価値観の交換をしましょうって、まあテーマトークですよね。テーマがあってみんなでディスカッションするみたいな、そういう時間があるんですけど、その時のテーマが「説得力のある人ってどんな人」みたいなテーマだったかな。
その時もいろいろみんなで話せて、僕が思ったのは、やっぱり実体験、体験をちゃんと積んでいて、その体験に基づく、体験から出てきた言葉なのかみたいなこと。すごく大事だよなって話はしていて、確かにそうだなと。ただそれだけではない気がするなみたいな話になって、いろいろ考えてその時たどり着いたのは、それをまず前提条件としながら、体験に基づいた何か主張とか発言である、その人の実体験に基づいた、プラス、あんまり説明しないっていうね。
それは何とかであるっていう主張をしたとして、「なぜなら」って言って理由が3つあります、って、だからそういう小賢しいことしないっていうね。今の社会に、社会っていうかビジネスシーンとかで生きてると、結論を話してその根拠が3つあってとか2つあってとかで話して、また事例みたいなもの、こういう事例もあってと言って、結論でもう一回主張に戻ってくるみたいな、そういう仕方で主張することっていうのはかなり染み付いてしまっていて、何か喋ろうとするとそういうふうな喋り方をしがちだなと思います、自分自身もね。
けどそれだと説得力がないなっていう。まあ説得する中身にもよるんでしょうけどね。そのビジネスっぽいというか、取引をする、契約を結ぶにあたって、信用するに値するかどうかみたいなことをジャッジする時には、そういった何を主張していて、その根拠は何で、具体的にどういうことかっていうのがあった方が判断しやすいっていう意味では、ビジネスでは正しいと思うんですけど。人間が人間と接していく上で、別に結論、暫定的な結論みたいなものはあるかもしれないけど、根拠とか曖昧じゃないですか、本来。
いろんな根拠がある。小さい時に親から言われたあの人のことと、中学校の時の同級生からと、喧嘩したあの時のことと、30歳の会社の時にこう言われたことと、この3つの体験が、とかって、ちょっと無理があるっていうか。もっといろいろある可能性ないですかみたいな。そんな3つなんですかみたいな。3752個の可能性ないですかみたいなことですよね。自分を今作り上げているものって、今3000とか言いましたけども、そんな数じゃない。もう3億とか4兆とか、そういういろんな無数の刺激の中で、情報環境にさらされて今の自分がいるわけですから。
自分を構成しているのはこれです、みたいなのは、エンタメとしてやる分にはいいと思うんですけど、本当に説明しようとした時には嘘になるというか。嘘になるから嘘っぽくもなるなと思うんですよね。綺麗にまとめればまとめるほど、嘘なのに綺麗にまとめてる、嘘くせえみたいな。それはおしゃべりが上手な人なのであって、それが本当かどうかっていうよりは、そのまとめ方はすごい面白いなっていうか、よくそんなにまとめましたねみたいな感じでしかない気がするんですよね。だからそれが本当かどうかじゃなくて、よくまとめたなみたいな話でしかない。
そう、だから僕はずっと、この公園活動を2年間ぐらいやりながら、当たり前ですけど「公園活動って何ですか」って問われるし。何ですかぐらいだったら、確かに何なんだろうっていうね、知らない人にそれが何かを説明するとか大事なんだろうとか思ったりはしてますけど。そういうものすごく分かりやすいところだけじゃなくて、「公園活動って意味あるんですか」みたいな、もうちょっと掘り下げた部分、どういう価値があるのかとか。これもさっき言ったビジネスだと、全部言語化してしまって、どういうベネフィットがあるのかってこととかをかなり言語化してやっちゃうっていうのは、王道というか、いかに言っちゃうかってことだと思うんですけど。
僕はそこに対する違和感がすごくあるからこそ、この今の社会にそんなに溶け込めていないのであって。そしてそんな自分や自分のような人、自分のような感覚を共有できる人たちの、一時的な避暑地としてというか、一時的に回復できる場所としてというか、物理的にそこに来なかったとしても、そういった場があり続けるということで少し気持ちが軽やかになったりするとか。そういう、今のこの全部、価値を価値として言葉にして、ある種でっち上げて「価値ですよね」ってコーティングしていくこと、要は全部にラベルをつけてそこに数字を書いて値段がついちゃうみたいな、全部値段ついちゃってるじゃんみたいな世界に、やっぱりちょっと違和感があるから。
そこに回収されちゃうと、せっかくの公園活動がもったいない。もったいないというか、わざわざその分かりにくいことをやって、時間も労力も割いて、でも結局やってること普通のことじゃんって、ラベルつけて値段張ってさ、みたいな。で、こうしたらこうなるよみたいな。だったら別に公園である必要ありますかみたいな。そうだったらコンサルティングって言って時間単価が結構高い仕事にした方が、時間あたりの効率はいいわけですよね。でも、そういうことじゃないんだよっていう、そういうことじゃなくてやってるんですよね。
だからやっぱり、そのフォーマットみたいなものに違和感があるけれども、でも説明しないっていうのが。自分の実体験に基づいた、経験に基づいた言葉である、言葉というか出てきている主張であるということと、そこに「なぜなら」とかも言わない、ということですね。会社で「説得力がある人」っていうテーマについて話したときに、そうやって自分の体験から出てきた言葉である、主張であるということと、そこに「なぜなら」とかも言わない。
たまにありますもんね、工場とかって。少人数の、結構難しい職人芸的なことをやっている工場とかで、もうだいぶ高齢化が進んでいる、70代の人とかがすごい難しいことをやっているみたいな会社とかで、もう引退するから次の代に引き渡していかないといけないんだけど、説明がないっていうかね。「こうだ」っていうのはあるけど「なぜなら」がなくて引き継ぎが難しい、暗黙知になっちゃって引き継ぎが難しいみたいな。それを問題として、会社とかではそのように語られるんですけど、そりゃそうですよね。
分業してみんなでやっていく上で、設計図じゃないですけども、これがどういうメカニズムでどう動いているのかってことが分かれば、再設計だってできるし別の人に引き継ぐこともできる。けども、その人一人の仕事になっちゃってるので引き継げないみたいな。仕事では、さっきから言うように、結論があってその根拠があって具体的な例があって、っていうのは重要、みんなで共有して分業していくには重要だと思うんですけど。でも一人の中のことをそんな風にしなくていいよね、と。「私を構成するのはなんとかで、なぜなら」って話をすると、本当かよってなっちゃいますよね。
だから面接とかでやるじゃないですか、自分のことを喋るみたいな。あんなのも相当茶番だなと思いますよね。せいぜいあそこで見れるのって、その人の膨大な覚悟というよりは、こういった選ばれるという場面において、どういったトピックをチョイスするのかみたいな、そういうセンスを見るぐらいしかできないんですよね。場の空気を読んで、求められている回答をしているかどうかとか見れるけど。もしくは、そういうのを空気を読まずに自分の言いたいことを言う人がいいねっていう、採用基準がどこにあるかはその会社によるでしょうけど。けど、そういったセンスとか空気を読める感とか、そういうとこしか見れない気がしますよね。実際にその人はどうであるかなってことは、あの会話の中で語られていることにはあんまり意味がなさそうだなっていうのが、会社の面接。
とにかく説明するっていうことは、説明した方がいいことと、そうでないことがあるなと思い始めています。もうちょっと、今日はあれだな、行ったり来たりしすぎて何の話をするか分からない感じになっているかもしれないですけども、まあそんな日もあるさということで、続けていきたいと思います。とにかく、説明しすぎないってことですね。実体験に基づいた、それが言葉であるか主張であるかということ、ここが説得力がある人なんじゃないか、みたいなので。
なんとなくその勉強会、会社の勉強会が終わって、それが多分先週とかだったのかな、一週間くらい経って昨日、バンドの練習があって、練習後、水上さんとヤマイモさんと公園活動の話をしていたときも出てきたのが、壮大な例題でしたけど、キリスト教の資料だったんであれでしたけど、でも説明しすぎないということ。どっちかっていうと、やっぱりもう振り切ってやり切るということ。そして呼びかけるということですよね。呼びかける。でもそれは「なぜなら」みたいなことはもういいんだと。
イエスは「私の後ろについてきなさい」と言ったと言ってましたけども、「え、なんで」っていうのが別にそこで語られてなかったから、「え、これなんで『私の後ろについてきなさい』と言ったんですか」って水上さんに聞いたら、「なんでとか多分言ってないと思います」みたいな。言ってないというか、本当にイエスが言ったか言ってないかとか知らないけど、そういうのはもう分からなくて、「私の後ろについてきなさい」と言った、この人ぶっ飛んでますねみたいなことを言ってたら、「上水さんも『でも公園に来なさい』とか言ってるんじゃないですか」みたいな、「『なぜなら』なんてことは言ってないよね」みたいなことを言われて、なるほどな、と。だからそれはそうだなと思いました。
公園に来てくださいって言うけど、「公園に来てください、なぜなら新しい友達に出会いますよ」とか、「公園に来てください、なぜならあなたの心が軽くなるからです」みたいなことは言わないですよね。例題として言うことがあっても、「公園に来れば心が軽くなります」みたいなことは言わないわけですよね。なぜなら、公園に来ても心が軽くならない人もいるから。なぜなら、公園に来ても誰もいない時があるから、友達はできない可能性がありますよね。ていうか、人がいたとして、その人たちと友達になれるかどうかなんて分かりませんから。人がいたな、だけかもしれないし。何が起こるかなんて分からないですから、公園で。
でも公園に来てくださいとは思っているし、公園に何があるんですかって、僕が作っている公園の場に何があるんですかって言った時に、何もないがあるっていうことだと思うんですよね。昨日も水上さんが言ってたんですけど、公園活動の中心はおそらく空白を作っている。何かがあるとか、どうなるとかじゃないっていうね。今この世界は全部ラベルになっちゃってて、全部値段が付いちゃってて、でもそこの空白にはラベルも値段も付いてない状態。そういう場所を都市の中にポンと突然作っているっていうことなんですけど。
じゃあそれが何なんだっていうことは、思うことはいろいろあるんだけども、なかなかそれを説明しすぎちゃうと、やっぱりどんどんどんどん、うさんくさくなったりとか。何でしょうね、多岐に渡るので、あれもこれもってなっちゃうとか、それとこれは矛盾するなとか。矛盾するものが、でも内包するんですけどね。矛盾するなとか、説明を聞けば聞くほど訳わかんなくなったり、逆に分かりやすすぎて嘘になったりとか、そういうことが起こりそうだなって思ってますね。
なので、ちょっとこの会社の勉強会と、昨日のスタジオの後の会話を踏まえて、ちょっと自分も、あまり公園活動については、その、いろんな起こったこととか、思ったこととか、主張みたいなことはやっぱりしていきたい、コンセプトの部分とかは自分の言葉で何度も何度も語っていきたいなと思ってますけども、それによってどうなるみたいな話っていうのは、あまり語りすぎない方がいいな、いいんだろうなって思ってますね。
今朝の朝礼でも話したんですけど、映画に例えると少しイメージしやすいかもなと思いました。結構商業的な、商業寄りの映画って、いわゆる大衆受けする映画みたいなので、めちゃくちゃ説明的というか。このタイミングでこの人が泣いているのは、こういう理由で、これが悲しいから泣いています、みたいなことがめちゃくちゃ説明的じゃないですか。セリフで結構説明しちゃうこともあれば、文脈が明らかにみたいな、分かりやすい、そうとしか取れないみたいな。解釈の余白がないというか、一個の解釈しかできない。せいぜい、こっちとこっちで取れるよねみたいに、それも設計されている。分かりやすく二つの相反する解釈ができますよね、みたいに設計されていたりとか、っていう。エンタメに多いなと思っていますけども、解釈を限定されるっていうやつ。そういう映画ってあると思うんですけど。
かたやフランス映画みたいに、これ何も起こらんかったけど、これ何だったの?みたいな、一見何も起こってないように見えるような、けれども深く読み解いていくと、そこにはいろいろ考える、感じる余地があるというか、そういう作品もありますよね。解釈に余白があるというか、解釈しがいがある映画みたいな。そういう両極みたいなのがあったときに、公園は明らかに、今言ったフランス映画みたいなそっち寄りというか。公園活動自体は何ですかね、めちゃくちゃ説明的な映画にしちゃうと、クソつまらん映画になるなっていう感じがするんで。やっぱり僕のその発信みたいなものが、あまりそうなってしまわないように気をつけないとなって、映画に置き換えたときに思いました。
説明することは良いことだって、よりオープンにして伝わるために良いことだって、どこか無意識に思ってたところがあるのかもしれないですね、今まで。だから説明を尽くそうとしていろんなことを言ってきた、この2年間でしたけども、でもそれも全部しっくりこない。決して嘘じゃないし、一生懸命自分の活動を、こういうことなんじゃないか、ああいうことなんじゃないか、こういう意味があるんじゃないか、なんてことを言語化してきたんですけども、どれもしっくりこないのは、言語化しちゃってることそのものに対するしっくりこなさなんだと思うんですよね。
だから、もちろん日々のことは語っていくんだけども、その日々のこととか活動とかをリンクさせて読み解くと、こういう解釈ができるよねみたいな、ちょっと大衆系はしないと思うんですけど、けれども考察しがいのあるというか、解釈しがいのある素材として存在していくっていうのは一つあるかなって思いましたね。解釈を限定しすぎない。そういうことは今後、意識して発信していきたいなというふうに思いました。
公園活動以外のことで自分が考えたことは、こういう出来事についてこういうふうに考えて、みたいな話は結構、解釈とか説明的な話をすると思うんですけどね、今も言っており。けれども公園活動については、情報のアナウンスとか以外に関しては、あんまりきれいに説明しすぎないようにっていうのはね。できないからですね。できない、してもなんかすごい嘘っぽくなっちゃうっていうか、変な感じになっちゃうから、もうあんまり公園活動に関して説明っていうのは、僕からはしないと。
どちらかというと、僕自身の活動をしっかりと積み重ねて、この活動に興味を持ってくださる方が増えてきたら、その中からその解釈をする人っていうのが出てきてくれたら、それが一番理想的だなと思ってます。実際に芸術祭プロジェクトに関しては、水上さんとか真希子さんっていうチームメンバーが、芸術祭側にこれはこういうものであるという、その応募の文章、資料は作成してくれるんだと思っているので。じゃあ公園活動って何なのかっていう言語化を、僕じゃない人がしているという状態は、現にそういうことなんだろうなと思ったりもするんで。
その解釈はやっぱり一人一人に委ねられているというか、実際そうなので。公園に来て、その公園が何だったのかとか、公園に対してどう思っているか、これってどういう活動だという風に感じているかっていうのは一人一人の中にあるので、あまり意味を決めつけすぎないようにやっていきたいなと思っています。
今、月曜日の8時で、家の近所を歩いているんですけど、散歩しながら喋っていると適当に歩くんで、今ここどこだろうっていう感じなんですけど。どうやら通学路に迷い込んだらしくて、ちょっと今一本道に入って通学路から外れてはいるんですけど、めちゃくちゃ高校生みたいな人たちが歩いていて、困ったなっていう感じですね。完全にちょっと治安ですよね。散歩に来たおじさんがひとりごと言いながら通学路を歩いているとちょっと怖いので、通学路から外れて、誰もいないところで喋っています。
というわけで、そろそろ怪しいので終わろうと思います。収録するのは土日とか、朝、人がいない時間とか、あと当たり前ですけど人がいないような場所、広い公園とか、そういうとこがいいなって思いますね。家の近所で配信日当日に録っていること自体が、ちょっとあまり良くないなって思ってるんで、今後はスケジュールを見直していきたいなと思っております、収録のスケジュールね。気づいたら、もう駅のそばだったんですね。そりゃ人多いですよね、駅前を歩いてたもん。じゃあちょっと人も増えてきたんで、この辺で終わりたいと思います。公園活動を応援してくださる方は、ぜひメンバーシップの「存在としての公園」にご登録いただけると嬉しいです。それではまた。