存在としての公園 第18回

善意の押し付けとバラバラの世界 存在としての公園

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概要

駒沢オリンピック公園でのゴミ拾い収録。サービス精神の危うさ、電車で見た100人が100通りの世界に接続する光景、人間集団が固定化されることの落とし穴、そして偶然の再会まで——分断と、顔の見える関係の価値について考えた。


全文

機械文字起こしをもとに、内容を変えずに読みやすく整えたものです。

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駒沢オリンピック公園に行きました。今日は1ヶ月に1度のゴミ拾い公開収録ということで、駒沢オリンピック公園にですね、約…あるか? 2週間ぶりか。ちょっと今年、正月に1回来たんで、それぶりでした。過去にね、ゴミラジっていうゴミ拾いポッドキャストをやってたんです。ゴミ拾いながら1時間ぐらいしゃべるっていうポッドキャストをですね、ほんと短い期間、10月、11月の2ヶ月間かな? やってて、その時に来た公園なので、2ヶ月ぶりとか言いたかったんですけど、正月に全国高校サッカー選手権の3回戦ですね、東福岡高校対大阪の興国高校の試合を見に行きましたね。それぶりということで、ゴミ拾っております。

この公開収録は、誰か一緒にゴミ拾ってくれる人が現れたら一緒にゴミを拾いながら収録するんですけど、時間に公園について一人で勝手に拾い始めるので、事前に行きますとかっていう連絡がない限りにおいてはですね、現地で出会えるかもわからないと。移動してますんでね。そこが上水公園、公園にレジャーシートを敷いているのとはちょっとわけが違って、僕が動き回っているので。そしてゴミ拾いをする公園ですから、結構広い公園を選ぶので、広い公園のどこにいるかっていうのが全くわからないという、そういった難点がございます。なので、一緒にゴミ拾ってくれる方がいらっしゃったらですね、ぜひ行きますってね、事前に連絡いただけると、一緒に合流してですね、拾い始められるかなというふうに思います。前回ね、ヤマイモさんが参加してくださって、それは行きますって連絡いただいてたんで、あらかじめね、合流してスタートすることができたという次第でございます。

チョコホイップクロワッサンの袋が落ちてましたね。ゴミが落ちている。今がですね、1月29日木曜日のお昼の2時40分。平日の昼間からゴミ拾っているなんて参加できませんよって方がほとんどだと思いますけれども、すみません、ちょっとスケジュール見てね、拾えそうなとこで拾ってるんで、どうしても変則的な感じになります。ただね、公園にゴミ箱があるところだったら、そのまま公園のゴミ拾って、公園のゴミ箱に捨てて帰れるんで、意外と日程が柔軟になるかなみたいなことはありますね。

ゴミラジやってた時って、毎回違う公園に行く、東京のいろんな公園を見学に行くのも兼ねてですね、毎回いろんな公園に行ってたんで、その公園の状況が分からないと。だから家にゴミを持って帰って捨てることまで考えると、このゴミ出し日に合わせてやらないとちょっと大変なことになるなと思って。ゴミをね、家に保管するとかってちょっとハードル高いですから、ゴミ出し日に合わせてねゴミ拾いってことやってたんですけど、よく考えると公園選べばいいから、別に曜日バラバラでもいいなって今気づきました。

大体ね、ゴミ拾い1時間ぐらいやっていきたいなと思ってるんですけど、ゴミ拾いながらだといつも以上にですね、視覚情報がこの世界に奪われているので、より無意識に近い状態で喋っていますんで、支離滅裂なことを言ってる可能性もありますけども、ご了承いただけたらと思います。またその半分無意識で話してるからこそですね、その出てくる言葉みたいなのもあったりするかなと思いますんで、散歩しながら話してるのとゴミ拾いながら話してるのでは、ちょっとまた違った部分が出てくるんじゃないかなと思いますんで、その辺もねお楽しみいただけると何よりでございます。おお、今これはね、まさにこの間試合を見た陸上競技場の目の前にやってきましたね。大きいですよね、本当に。この規模の公園がガンガンあるからね、東京は。すごいですよね。

全然関係ないですけど、サービス精神みたいなものについてちょっと、さっき行きがけに考えてきて。サービス精神って何なんですかね。相手に喜んで欲しいとか楽しんで欲しいみたいな、相手への思いみたいな、気遣いみたいなのがあって、それをより喜んでもらえるように、より楽しんでもらえるように、より気持ちよくなってもらえるように、何かアクションを起こすみたいなことなのかなって思ったりしますけど、サービス精神って結構微妙だなって僕は思ってるんですよね。

サービス精神がないなぁって感じる時っていうのは…あんま感じないな。配慮がないなみたいな時とかはあるかもしれないけど、でも相手に、サービス精神ないなぁって思うことはないかな。サービスしてもらう立場にないというかね。で、あとお店でお金を払っていて何かサービスを受ける時に、その意味でのサービス、金銭のやり取りによってある種約束されたサービスみたいなものについては、金銭を返しているので、サービス精神がないなぁってよりは、サービスの質が低いなぁになるので。どこかサービス精神という時には、自主的なおまけというか、何か契約がそこで結ばれたわけでもないのに、自発的に一歩踏み込んでやっていることなのかなぁって思ったりするんですけど、それってもう僕は、そこまで求めないって感じかなぁ。

サービス精神って一歩間違うと害じゃないですか。例えばサービス精神で、楽しんでもらおうと思って何かギャグを連発している人とか見たら、鬱陶しいですよね。今すぐそのサービスを停止してくれっていう気持ちになってしまう。基本的に楽しませようとかっていうので動いている人の8割ぐらいは、楽しんでもらったとか楽しませた自分ですよね。楽しんでもらった人の楽しそうな顔を見て自分が嬉しくなったりとか、楽しませることができた相手を、要は支配、コントロールできた、楽しくない状態から楽しいの状態に切り替えることができたみたいな、ある種の全能感というか有能感というか、自分が状況を動かしたという。サービス精神と言いながら自分のためにやっている人は結構大多数な気がしますよね。

些細なところでいくと、喉乾いてそうだなっていう人に水を汲んでおいてあげるとか、もうサービス精神に含まれると思うけど、サービス精神っていうよりは気遣いみたいな感じ。あっても困らないし、残しても最悪ね、お部屋を残しちゃった後はならないじゃないですか。だから当たり外れの少ないサービス精神みたいなのはあるっていうか。けど、当たり外れなら、サービス精神でのアクションっていうのは結構ね、外の方が多いかもなっていう気が僕はしてるんですよね。半々もしくはちょっと…やって大体喜ばれるの方は、料理とかはそうなのかもしれないですよね。

積極的に、なんていうんですかね、日本代ですけど、ちょっと料理をどんどん作ってくる人。友達とか会えた時に、もうお腹いっぱいだなみたいな、量多いなみたいな時とかに、でもどんどんどんどん作ってくるとかっていうのは、本人は良かれと思ってやってんだけど、いやもうこれを食べるのもしんどいわっていう、言わせないでほしいみたいなね。そういうのもあったりしますよね。

だから、一見いいことを、相手のためを思ってやってるからいいことって、シンプルに考えたらそう見えるけど、そのいいことを押し付けられている側の、NOと言えないとか、言いづらいとか、受け入れないとヤバいやつと思われるみたいな状態を作り上げてしまう。結構、すごい支配的、暴力的行為だと僕は思っているので。サービス精神強めの人っていうのは、よほどね、さっき言った自然なサービス、僕が喉が渇いてるときに水をそっとね、汲んできてくれるとか、水ちょうど飲みたいと思ってたなみたいな、そういうのとかは最高なんですけど、それって相当レベル高いっていうか。

完全に相手の立場に立って、本人が不足しているか、そして不足しているし、かつ本人が不足していると思っているものを、適切なタイミングで投げない限り。タイミングが悪いだけでも、いや今じゃないってなるし、不足感があるが今は別に解消したいわけじゃないってこともあるし、あとは不足しているように一見見えるけど本人は困ってないってこともあるしとか。そういうことを考えると、サービス精神で行動した、その動機がね、たとえ相手のためにと思って動いているんだとしても、かえって相手に負荷を与えているってことも往々にしてあるので。あんまり…やりたいからやってる、迷惑かけてでもやりたいからやってるだったら、僕はそういう人なんだなでいいんですけど、あなたのためを思ってやったのに、っていうスタンスは結構ね、どうかなーって思ったりはしますね。

サービス精神を持つぐらいだったら、もうちょっと抽象的なところを考えたほうがいいというか、根本的なところを考えたほうがいいというか。ちょっと使い古された言葉、怪しい人たちが使いすぎてもう怪しい言葉みたいになってますけど、ギバーとテイカーみたいなところですよね。自分がテイカーになってないかみたいなことはやっぱ考えたほうがいいっていうか。欲しい欲しいお化けになってね、何でもかんでも欲しい欲しいで自分ばっかり取ってね、相手の分を取っちゃうみたいなのはちょっとやっぱり良くない。相手にね、自分の余力の範囲で、余裕のある範囲でですね、ギブできる存在でいると。そういうサービスとかっていう言葉ではなくてね、ギブの精神みたいなのを持つっていうレベルでいいかなと思ったりしますね。

そしてそれがどういう形で現れるかは、あまり別に、サービス精神なんか発揮しなくてよくて、ギブの心だけ持っていてくれたら、それがおのずと、なんて言うんですかね、コミュニケーションを取ってたらそういうスタンスっていうのは伝わると思うんで、それで十分っていうか、何かしてもらうまでもないっていうか。何か困ったら与えますよって、与えますよっていうことは上からだけど、自分が何か奉仕しますよっていう心意気だけで十分満たされるなって思うんで、具体的にアクション起こされても今じゃないっていう感じがありますね。

で、特に僕はそれが強いですね。して欲しいことはして欲しいし、して欲しくないことはして欲しくないっていうのが明確にあるので、して欲しいことをして欲しいタイミングで、して欲しい強度でやってもらわないと迷惑なんですよね。だから、せっかくの善意に不快になってしまって、でも不快なんだけど善意でやってもらうってことも分かるから、笑顔でありがとうございますって言わないといけないみたいな、笑顔のありがとうを強制されてる感覚になって、それもまた不快みたいなこともあるんで。あんまりサービス精神が強めの人っていうのが、苦手とまでは言わないけど、そういう行為をされた時にちょっと対応に困るなーっていうのはあったりしますよね。

だから、相当なレベルで想像して、繰り返しになるけど、相当なタイミングで、適切なものを適切なタイミングで届けてもらわない限り、それはありがたいなっていうことにはならない。心の底からはね、ならないので、ちょっとねーっていう感じがしますね。でもそれがやっぱりギブの精神に基づいているっていうのが伝わってくれば、対応には困るんだけども、いや、でもその気持ちが嬉しいなっていう風になったりするし、全然いいんでしょうけど。それがね、やっぱり自分が認められたいがゆえにやっているサービス精神だったりすると、結構やっぱね、きついよね。

テイカーとしてのサービスみたいなのもあったりするじゃないですか。契約を取りたくてめちゃくちゃギブしたふりをするとか、よいしょするとか。例えば気持ちよくなってもらおうみたいなの、契約書にサインしてもらうためにみたいなのとかって、もうテイカームーブじゃないですか。だからサービス精神って一言で言えない感じはしますよね。その人は本当にギブの精神に基づいてやっているのかっていうことが大前提にあり、もう一つは、いわゆるその内容とタイミングと強度みたいなね、数量とかもあるしね、そういったものがちゃんと適切なのかっていうことがあって初めて、それがありがとうっていうね。

それは食堂で、喉が渇いて水を置いてくれるのはありがたいって言ったけど、その時にね、樽ごと持ってくるとかされても困るわけじゃないですか。グラス一杯でいいし。水を入れるポットみたいな、ああいうのをね持ってきてくれるんだったらいいですけど。やりすぎもやっぱり問題だし。むずいよね。だからサービス精神はいらないから、ギブの精神を持って、とか、相手へのね、慈悲の心を持って人と接するっていうので僕は十分かなって思うし。そういう感じですかね。とか、相手が思い切って言葉にしている、こういうことをしてほしいですって言っていることを支援するのがいい気がしますね。良かれと思ってめんどくさいことになってるみたいなやつが、やっぱ一番怖いよね。善意でせっかくやってるのに迷惑を生み出しているみたいなことって結構あるからね、世の中ね。なんてことを思ったりすることがあります。

最近、バンドの、東京で組んだバンドでスタジオに入りました。1月後半、もう1月後半ですけども、先週の日曜日だったかな。スタジオに入って、2ヶ月ぶりぐらいに集まって演奏して、楽しかったねなんて言いながらご飯食べて、二次会みたいな感じでちょっと喫茶店に流れたんですよね。時間もまだ早かったんで、夜7時過ぎとかだったかな。スタジオがもうお昼から入ってたんで5時ぐらいに終わって、食事して7時過ぎに一次会終わって、何人かさよならって解散して、残った3人でですね喫茶店に行っていろいろお話したりとかしてました。それが前回話したんだっけ。なんか話したような気がしますね。

いろいろね、そういうのがあったりしつつ、帰り道、結構印象に残っている出来事があるんですよね。帰りにバンドメンバーの水上さんと家が大体似たような方向だったんで、一緒の電車に乗ることになって、駅のホームとかを歩いてる時に。東京の駅ってやっぱり人がめちゃくちゃ多いじゃないですか。もうね、すごい数の人がホームに歩いてて。その時僕が言ったんですよね、本当に東京は人が多いですねって。そしたら水上さんが、皆さんよく正気でやれますよねみたいなことを言ってあって、そうだなって思いましたね。この結構狂気じみた人の数、人の密度だなって思う。でもそれをみんな日常として正気で生活してるんだからすごいなぁって。

そういう話題になったんで、ついつい色んな人を意識して見ていると、みんなスマホ触ってるんですよね。歩きスマホ。そんなわけ、人がいっぱいいながらも、スマホを見てっていう感じで。危ないですよね。僕が水上さんに言ったのは、本当にこの街に友達がいなかったら、一人ぼっち、孤立しちゃってたら結構正気保てないかもなっていう。こんだけ人がいるのに誰一人自分とは無関係で、自分が透明人間だったかのような感じになり、全てが自分とは無関係でっていう気持ちになっちゃうだろうなって。でもこのたくさんの人の中のどこかに自分の友達とかがいて、もっと言うと未来に友達になる可能性のある人がいてって思うと、何か関係がある人、もしくは未来に関係を持ち得る人という気持ちになれて、今は関係がないけども関係があるかもしれないという気持ちになれるんですけども。その繋がりみたいなものを想像できて正気にもなれるかなと思うんですけど、孤立すると結構きつい街だなぁっていうのは改めて思いました。

田舎、近所に人が住んでないみたいな、田舎に住んでいようと別に孤立は辛いのかもしれないですけども、人混みの中で感じるそれとはまた違う感じはしますよね。自分だけがみたいな感じが。全然自分だけがってことはないんだろうけど、でも自分だけがって感じやすいようなシチュエーションっていうのは結構、精神に来るものがありそうだなと思いました。

で、みんなスマホを見てて。この駅のホームで、これだけ人がたくさんいるのに、ここでは一緒に行動している人とはちょっと繋がってますけど、一人でいると当然みんなは繋がってなくて無関係で、いわば障害物でしかないという状況で。画面の向こうにまた誰かがいると。その誰かが、もしかしたら具体的に、友達とLINEをしているとか、兄弟に連絡を取っているとか、わかんないけども、顔の見える存在と遠隔で繋がっているとかだったら、すごくこの、地獄みたいな駅のホームからでも画面越しにそうしてぬくもりのある何かコミュニケーション、関係性みたいなものに接続できていいねって感じがするんですけど。

もしもその時に見ているものが、例えばXのタイムラインとかだったら、結構すごい状況だなぁなんて思ったんですよね。目の前の駅のホームがすでにXみたいな、ぐちゃってしたタイムラインみたいなのが物理的に広がっていて、そこがアクションゲームのように障害物を交わしながら、画面の向こう側にまたXが繰り広げられていて、有象無象がわけわからんこと言ってるみたいな、バリ雑音飛ばし合ってますみたいな、欲望を刺激してくるようなコンテンツであふれかえってますみたいな感じで。具体的に顔の見える、自分と接続している誰かではなくて、不特定多数のよくわからない何かが物理世界で繰り広げられ、画面の向こうで不特定多数のよくわからない何かが繰り広げられているみたいな。すごいことだねなんて思いましたね。

そこまで言葉にはしなかったですけど、そのようなことをですね、水上さんに伝えたりしながら、代わりに電車に乗って。そういう話をしてたもんですから、電車の車内を見回してみたら、さっきの障害物を避けながら歩いていくっていうときよりもね、もう椅子に座ってますから、安全圏にいますから、もう9割ですよね、95%、みんなスマホの中を覗いていると。だからさっきの、画面の向こうで具体的な誰かと接続していたらいい、いいっていうか温かい感じがしますけども、カオスに接続していってるの面白いなぁみたいな。なんてことを思っていると、電車の車内というね、物理空間を共有しているそのフィールドみたいなものでは一切交わらず、画面の向こうで、画面の数だけ違った世界、100個あれば100通りの世界に接続していってるみたいなのが。本来同じ物理空間を共有しててもそうなんだけども、とはいえ露骨にそうじゃないですか。スマホの画面の向こうで何が映ってるかで、多分100人いたら全員違いますからね。

あからさまに別の世界に接続していってる光景を見てね、結構ゾッとしたというか。これだけやっぱ見てる現実が違うと、それは話も噛み合わんだろうな。話というか、根底に持ってる世界認識みたいなものは噛み合わないから、陰謀論みたいなものも分かれてくるだろうし、どんどんどんどん生産され続けるし。っていうか、事実ってなんだっけとかね、ファクトって何なんだろうみたいなことになっていくわけですよね。で、そのファクトみたいなものも、公文書を元にこれがファクトですとか言ってたら、その公文書も改ざんされてたから、じゃあ現実ってなんだよっていうね、話になってきて。結局みんな画面の向こうに映っているよくわからない情報の中から、自分が臨場感を感じられるものを現実と呼んでいるに過ぎないんだなって思ったりとかしたわけですよね。

で、そんなことをまた話していたら、水上さんが、この今スマホをみんな持ってる光景が、一昔前、二昔前、分かんない、もうちょっと前か分かんないけども、そういう頃はみんな電車で新聞を広げたりとかしてたんでしょうねなんて言って。で、僕がそこに対してですね、ああ、そうやってね、ある程度プロの方が編集した情報を見てる方が、こんなごちゃごちゃしてる、ルールなしみたいな、すごい情報の渦の中にいるよりも良かったんじゃないかなってことをボソッと言ったら、水上さんもそれに結構、異を唱えるというか。編集された、少人数、少数の誰かに編集された情報をみんなが見ているという状態も、要は一部の人が作り出した世界認識みたいなものに染まっていくっていうのも、それはそれで多くの人に影響しちゃってるから、そうでない解釈っていうものが超絶マイノリティになってしまうっていうかね、明確にマジョリティとマイノリティみたいなものを作り出すよなぁとは思ったんで、ちょっと考えを改めました。どっちにしても地獄だなという感じですね。

どっちがいいかなかなか語れないですけども、自分にとってどっちが心地いいかとかね、そういうことは思うところあって。やっぱり新聞、テレビ、雑誌みたいな…雑誌はちょっとあれだな、新聞、テレビ、ラジオみたいなものがメディアの中心にいた僕の小さい頃、10代ぐらいまでそうだったのかな、特に90年代ぐらいまでは確実にそうだったかなと思うんですけど。そういう時代っていうのはやっぱり、テレビ、ラジオ、新聞に書いてないことっていうのは信憑性のないものだっていうふうに。本とか論文とかそういうのはまたさておきですよ。一般的に日常的にカジュアルに触れるメディアとしては、そういったものがかなり現実を作り出していたと思うし、生活者の価値観のベースみたいなのを整えていたと思うし。整えていたってのは別にいい意味ではなくて、ニュートラルにね。結果、基本はこうですよっていうか、普通ってこうですよっていう、ノーマルはこうですよみたいなことを決められていた感じが確かにあったなみたいなふうに思いますよね。

当時のやっぱりバラエティー番組とか思い起こしてみても、セクシャルマイノリティの方をバカにしたような表現みたいなのがまかり通っていたし。その時に、なんだろうな、今みたいな認識ではないから、そういうふうにバカにされるのかみたいなことを…そうですね、内面化もそんなにしてない気がするけど、でも自分でも気づかない感じで、うっすら当時は内面化していったのかもしれないですよね。後天的に学習していく中で、いやそれおかしいよねってことに気づいていくわけですけども、そのまま認識が止まっているような人なんかもやっぱりいるのかもしれないし。何が言いたいかというと、そういった基準となる価値観みたいなものを半分植え付けられていたんじゃないかなと思ったりしますよね。

でそれが、みんなこの情報を見てるっていう状態だから、みんな語り合えるわけですよね。実際僕は学校で、翌日行くと昨日のドラマの話とか昨日のバラエティ番組の話みたいな感じで、コミュニケーションのきっかけになっていて。もう一回だからその、昨日見た番組のこととか語られて、やっぱりそうだよね、そう思ったみたいなこととかがここでシェアされたり、あれは違うと思った、そうだねとかって言って答え合わせみたいなことがあり。これは普通なんだ、これは普通じゃないんだ、これはイケてるんだ、これはイケてないんだみたいなことを、テレビ、ラジオ、新聞とかを通じて得た情報を身近な人たちに確認しながら、また振り分けていくっていうことを無意識にやってた気はしますね。

自分が所属していたコミュニティがちょっとやっぱり特殊な…高校生ぐらいからもうバンドをしてたんで、バンドをしていたし、バンドの先輩方とずっと夜な夜な遊んでるみたいな生活してたんで、テレビとかにも触れてこなかったし、ほとんどラジオも聞かないし新聞も読まないしって感じだったんで。そういったオールドメディアの影響っていうのは小学校、中学校ぐらいで止まっているんですけど。あんまりそういう意味では、洗脳されまくる前にちょっと情報から離れちゃったっていうのがあるんで、そんなにオールドメディア的価値観を内面化しないまま大人になっちゃったっていうか、慣れたというふうに思ってるんですが。まあなかなかそれを浴び続けてるとね、厳しいものがあるなって思いますよ。

よほど自分をメタ認知するというかね、自分自身を引いてみることができないと、自分が持ってるその価値基準みたいなものが、すごく少数の情報で構成されてないか、作り上げられてないかみたいな、例えばテレビに植え付けられていないかみたいなことって、再検討するの難しいですよね。難しそうな人がいっぱいいますよね。それが別にテレビだけじゃないですよ、今はたまたまメディアの話をしてますけども。会社の常識。自分が所属している会社と家の往復しかしてなくてコミュニティが狭いと、会社の常識みたいなのが、社会人というのはそういうもんだ、会社員というのはそういうもんだみたいな感じで。日頃プライベートでよほど意識して外の情報を取って、自分の生きている世界が別に当たり前なんじゃなくて、それはあくまで一事例として、自分の生活しているコミュニティが当たり前なだけで、外では全然そうじゃないんだよなんてことを見れずに、社会人とはこうあるべきだみたいな感じでですね、どんどん凝り固まっていくっていう意味では、情報源が限られていた頃とはあまり変わらないとは思うんですけども。

またメディアに戻ると、とにかく新聞、テレビ、ラジオみたいなすごく限られたチャンネルで、それを放送するかしないかを決める権限を持った少数の人が良かれと思ったものしか、やっぱりね、良しとしたものしか触れることができない時代っていうのは、それはそれでやっぱり恐ろしいなと思うので。今みたいに何の訓練も積んでいない有象無象が発信しているっていう恐ろしさと比較すると別物なんですけども、少数に牛耳られている怖さっていうのはやっぱりあるなと思います。でも僕の立場としては、少数の権力者に情報を制限されるよりは、どんだけ質の悪い情報、質の低い情報であっても、より多くの人が情報の発信もできる、また情報を受けようと思った時に自分で探していろんな情報にアクセスできるっていう方がいいなと。そういう社会の方が自分はいいなと思っています。

ただそれもまた、電車に番組を戻して、水上さんと話してたんですけども、それをすごく単純に言えば、少数の権力者に握られてたものがみんなに解放されたとか、より多様な情報が出るようになった、わーいみたいなシンプルな話ではなくて、いろんなものがフラット化されればされるほど、結局個人の力に依存していくんだということですよね。より大きな力があれば、それに便乗することさえできれば、そんなに自分に力がなくてもなんとかなるんですけど、より大きな力がない状態っていうのは、自分自身でチームを結成するとか、チームを結成しなくても自分一人の力をつけるとか、もしくはお金の力ですよね。お金を稼ぐ、何らかお金を恵まれれば、そのお金を使ってとか。要は個人にひも付く何かでどうにかするしかなくなると。どうにかしようと思えばできる、土台はあるんだけども、でも自分にどうにかする力がなかったら何にもならないみたいな。そういう状態ではあるなと思ったんで。

一部の人にパワーが牛耳られている状態は、マイノリティにとってはとてもつらい。マジョリティになれたらすごくいい社会だけども、いつでもねマジョリティにいられるわけではないですから。そういう意味では、ある程度それが選べる多様な社会の方がいいなと自分は思っている。どちらかというと自分は、世の中でいうカテゴリーでマイノリティには入らないけども、でもいまいち、疑わないようなことを疑ってしまう程度にはマジョリティにはなれないというか、マイノリティ寄りの感覚っていうのはちょっとあるにはありますよね。属性的にはね、男性で中年でみたいなことを考えていくと、恵まれていることはたくさんあるので、強者側に位置すると思うんですが、単純化できないというか、そういった属性の中でもマイノリティな部分。なかなか、ゲームとかにエネルギーが出ないし、自分より偉い人とか年上とかにヘコヘコするみたいなこともあんまりできない。プライドが高いとかそんなんじゃないっていう、どっちかって言ったら、これなんなんでしょうね、権力者にヘコヘコできないですね。

僕の魂に刻まれた傷みたいなのが多分あるんでしょうね。特に小中学校の先生とかにこうね、思い出がいろいろありますけども、嫌な思い出が。ああいう圧倒的権力者の支配で傷ついた魂みたいなのがあって、それはもう一生背負って生きていくしかないというか。そうすると、なかなか権力者にゴマすってヘコヘコするなんてことをするぐらいなら死んだほうがマシだなみたいな、そういう極論じみた、まあそういうことが当たり前にできてしまう人からすると極論じみた話なんですけど、結構切実に、権力の乱用に対して自分はね、許さんぞという気持ちがありますよね。

権力反対とたまに思われるから、ちょっとそれは違うというか。何をするにしてもね、一人でできないことがたくさんあって、チームを作ったりする。一番分かりやすいのは会社とかだと、やっぱり責任のレベルっていうのがあって、全員に同じ責任と権限を与えたらやっぱりチームは機能しませんから、リーダーがいたりだとか、最終決定権を持つ人がいるとか、そういうことってあって。それはやっぱり責任とか権限っていう言い方をしたとしても、結局は権力を持っているということなわけですよね。それがあったほうがいろんなことが合理的に進むってことはたくさんあるので、別に僕は権力を否定しているわけではない。どっちかというとその権力を乱用している状態、意思決定のために使うならいいけど、そのチームが結成された目的のためにその権限を使うんだったらいいけど、私利私欲のためにとか、自分の名誉のために、自分が気持ちよくなるためにその権力を使ってたりするのを見ると、絶対に許さんぞという、そういう気持ちがございます。

なんで、僕も公園活動をやってますけども、組織化しないっていうことをやっぱり気をつけているのは、固定化された序列関係みたいなのが起きないようにっていうふうに。どうしてもその権力関係みたいになってしまうし、それができちゃうと、僕とその相手との1対1の関係においてはいいのかもしれないですけども、ピラミッドみたいになっていって、側近みたいな人が調子乗り出すとかね。そういうのもいろんなコミュニティとか見てても、発起人はいたってフラットなのに、取り巻きみたいな人たちが権力争いしてて、なんでしょうね、トップはみんなウェルカムって言ってるのに、側近3人がそれぞれ方針割れして、派閥作って派閥ごとに揉めてるみたいなこととかもよく見るし。人間が集まって、固定したメンバーで集まってなんかやるって、本当にろくなことにならないなっていうふうに思う。

みんながみんなやっぱ一定の思いやりを持って、そして他者への想像力を働かせて、それこそテイカーにならずギブの精神で全員が関われてこそ、一人がねちょっと調子悪くて、その時期ちょっとね配慮ができないとか貢献ができないみたいなことはあっても、それをカバーできるぐらいの関係性っていうかね。そういうのができてるといいんでしょうけど、なかなかそんな集団っていうのには出会えないですよね。誰かに負荷が偏っている、負荷が偏り続けているみたいなことっていうのが、よく見る集団でございますね。

僕の公園活動は組織化せずに、集まりはするんだけども、あくまで瞬間的な、その日その時間、たまたま居合わせるというような感じでやっていきたいと思ってますんで。その瞬間でもやっぱり人間ってできるんですよね、何かしようと思った時に、誰がリーダーになろうかみたいな。晩餐会とかも分かりやすいですよね。その5時間しかともに何もしないんだけども、5時間一緒に料理を作って食べるっていうプロジェクトなんだけども、ちょっとリーダーっぽい振る舞いになる人もいるし、ちょっと指示待ちというか、悪い意味じゃなくてね、指示を仰いで指示に沿って動いていく人もいるしっていう。結局人間が集まった瞬間、何かしようとした瞬間、自然とそこの関係性に権限の差みたいなのが自然についちゃうなーって思うんですよね。

それ自体が悪いというよりは、それは料理を作って食べるという、さっき言ったように目的があって達成すべきことがあったときに、そのような役割があったほうが合理的だってことがあるから、自然とそうしちゃうんだと思うんですよ。人間のやっぱり怖いのが、これが固定化されたときに、いつの間にか、最初はね料理を合理的に作るための効率的なチームのためにそうしたっていうだけなのに、要は料理を作るためだけなはずなのに、いつの間にか自分のほうが偉いんだとかいう話になってくるっていうのはね。これやっぱり会社とかでよく見るやつですよね。固定化された瞬間、自分という存在が偉いと勘違いしてしまう。あなたの存在が偉いんじゃなくて、その役職が、責任と権限が高い、部長であればね、その課長よりも高いんだと、主任よりも高いんだというだけであって、あなたの人間存在が高いわけではないんだっていうことが分からないバカみたいな人たちが結構いるというのが、この社会の恐ろしいところだなと。

なので、やっぱり固定化させないっていうことを僕はすごく意識していて。最近ね、晩餐会の中で、例えばリードする人とフォロワーみたいな人がいたとして、別に序列関係にはならないっていうか。その日で終わりだから、あくまでその1回の料理を作るのに最適なフォーメーションを組んだだけだよねってみんな思ってるから、そこに人間的な優劣がつくこともないし、むしろいいチームワークだったねって終われるわけなんですけどもね。これが固定すると、人間は本当にね、愚かなことになっていくなっていうふうに思います。嫌だなと思ってますね。そうだから、あんまり僕は組織化したくない、いろんなことを組織化したくないし、組織の中にも入りたくないっていう、そういう気持ちです。何かするにしてもプロジェクト単位で動いて、信頼できる、変にそこで俺の方が偉いんだぞみたいな風にならない人たちとだけ何かやって、そういう風になりそうになったらプロジェクト解散すればいいしっていう感じで。もしくは短期でねプロジェクト終わらせて、関係性が硬直化する前に終われるようにするとか。そんな感じでね、ちょっと調整して生きていってる次第でございます。

ちょっとすごい脱線したな。とにかく多様である社会においては、多様であるがゆえに自分でチョイスしないといけないっていう負荷がかかり、その負荷に耐えられるだけの個人特性みたいなものが求められると。だから自分で決めきれない人とかは結構きついっていうか。例えばSNSで膨大な情報の中から、自分が本当に必要な情報を取捨選択するって、やっぱり何を見ないかを決めるっていうことだと思うんですよね。何を見ないか決めるってやっぱりすごく意思がいるし、それがなぜなのかっていう、結構その指針みたいなものがないと難しいじゃないですか。だからそういうのが決めきれずにいろんな情報にさらされるときには、よりドーパミンを刺激するようなものに翻弄され続けるという。

そういう意味では、どっちのほうがやばいかってわからないな。テレビはテレビでやばかったと思うんですよね。テレビ時代も、みんながそれを正解だと思っているから、正解ですよねって、変にマジョリティが形成されていく怖さもあったから。僕はやっぱり今のほうがまだいいですね。僕としては生きやすいなと思ってますけど。マジョリティにさせてもらえない世界っていう。今はねマジョリティみたいに振る舞ってる人が差別主義者になっちゃうっていうかね、マジョリティぶって暴力的になってるみたいなのが。マジョリティも暴力なんですけど、テレビ時代のマジョリティのムーブっていうのはやっぱりもう、ノーと言えないぐらいの軍勢がいましたんで。ノーと言ったら本当に社会から干されるみたいな、そういう空気感はあったなと思いますけども。今はもうその、マジョリティぶって決めつけてかかってくる人ってやっぱり差別主義者であるというふうにカウンターが入るんで。

それはそれでいくつかの勢力が常に殴り合ってるみたいなのが、その辺で人が殴り合ってるなみたいな社会に生きているのが、果たして多様性と言っていいのかっていうのはあるけど。多様であるということは結局、多様であることに耐えられない人がお互いに殴り合って、一つの多様さを潰していく、よりシンプルにして天下統一しようとしちゃうみたいなことなのかなと思うんで。まあ血なまぐさい時代ではあるんですけども、それでもなおやっぱり僕は、チョイスできる世界であるということが個人的にはすごく…もう本当に口を酸っぱくして言いますけど、その方が社会がいいって言いたいわけではないんですけど、個人的にはその方がいいと思ってますね。

できやすいですね。例えば公園活動みたいなものがある種させてもらえるのっていうのは、この今の時代だからだと思うし。これを90年代でやろうとしたら本当に、もうちょっと風当たり強かった気がしますよね。親戚一同とか友達一同からバッシングないし、もう引き止められて、場合によっては精神科に送られるみたいな、そういうことだった気もするんで。ちょっとよくわからんけど、そういう生き方もあるんだねみたいな感じでチャレンジさせてもらってるっていうのは、すごくいいなと思ってます。

でもその責任を自分で負わないといけないから、やっぱりそういう多様さみたいなものが求められる時代でもあるんでですね、難しいし。もっと言うと、そうだな、自分で仲間を作っていくような、コミュニケーション能力みたいなものが求められるし、もっと言うとコミュニケーション能力以前に、この人と関わってもいいと思ってもらえるか、信用してもらえるか、信頼されるかっていう、人としてどうあるかってことを求められるというか。そんな感じがしますよね。すごい時代はやっぱり生きてるなぁと思います。

社会はどんどんどんどん、いい悪いはちょっと分からないけど、安定から不安定に入っているなというふうに思うんですよね。ある意味安定している社会だったように僕が小さい頃は感じます。単純に社会が見えてなかったから、小さな小さな保育園のとか学校のとかしか見えてなかったから、お金の管理もしてないし。社会が見えてなかったからそうだったのか、ちょっとそこら辺はバイアスがね、単純な比較はできないんですけども。けれども僕の感覚としてはですね、そういった時代よりも今の方がね、結構複雑で、変化が激しい時代にいるなぁというふうに思っていて。それが、世界が良くなる感覚は全く持てないけど息苦しさはないみたいな、そういう感覚なんですよね。呼吸はしやすい時代ではあるな、世界が終わりそうだけどみたいな、そんな感覚。90年代は世界はこのままきっと維持されそうだな、でも呼吸はしづらいなみたいな、そういう感覚。

そういう感じなんで、本当に個人としては呼吸がしやすくていいなぁなんて思ってるけども、社会としてはどうなのか。これはもうね、誰にも分からないというか。それこそ一回多様になってしまった世界で、天下統一とかしない限り、思想とか言論を統制することはできないと思うので。天下統一されない限りは、このまま多様さがしぼんでいくことっていうのはなかなか難しいんじゃないですかね。だからしぼんでいくとしたら、天下統一される、植民地化されるとか、そういうことがあるとやっぱり恐ろしいんですけど、実際ありうるしね、現実的にありうるなとも思ってるんですが。それがない限りにおいては、基本これが穏やかに縮小して、スタンダードみたいなものができてきますみたいなことにはならない気がしますよね。みんなバラバラみたいな世界だと思います。

だからこそ僕はこの公園活動、そういう見通しゆえに公園活動をやっているというか。小さな緩衝地帯を作っていくというか。日頃のそのカオス、カオスゆえに余白みたいなものをしっかりと、ここの領域においては何者でもない、右も左もない、老いも若きもないみたいな、そういう状態を作りたいし。権力の話にもなるけども、正しく権力を行使してその余白を自分の存在が守り抜くと。その小さなスペースかもしれないけども、その小さなスペースにおいては序列なんてものを持ち込む奴には出て行ってもらいますという、断固たる決意でですね、そこに序列を持ち込ませないっていうね、感じでやっていきたいなと。もちろん僕自身もね、自分をしっかりと見つめてですね、権力乱用になっていないか、この権力の行使は正しい権力行使かってことをちゃんとチェックしながらやっていきたいですし。

もっと言うと、自分の存在としての公園、サポートの方の公園ですね、皆さんの経済的支援によって活動が継続できていますし。もちろん公園サポートの方だけじゃなくて、実際に足を運んでくださる方とか、このポッドキャストを聞いてですね、いつも聞いてますよってメッセージくださる方とかもいるんですけども。そういった方とかいろんな方に支えられて、自分自身の、おかしなこと、ちょっとおかしなことは難しいけども、コンセプトからずれたこととか。公園、組織化しないってことは全権力が僕に集中しちゃってるんで、その僕がその権力を正しく行使する、正しいコンセプトに沿ってそれを体現するために権力を行使するっていうのでいいんだけども、変な風にその権力乱用してるとかがあれば、そういった支えてくださっている方が支えてくれなくなるという結果としてですね、出てくると思いますんで。

まあ、いい関係なんじゃないかなと思ってますね。別に独裁者にはなれないので。なれないというか、なる構造になっていないので。こいつ独裁者みたいだな、サポートするのやめとこうみたいな感じでストップすることが容易にできる状況だと思うので。僕もそれがしっかりと監視が効いているというか。しっかりとその、まあね、例えばお手紙が効かれなくなるとか、そういった何らか数値としてアラートが出てくるっていうのはあるかなと思いますから。もちろん自分でね、自分を見つめて間違ったことをしてないかと考えるんだけども、そういった外部的な反応でもチェックできるし。まあとにかく、いい感じですってことです。とてもいい感じで公園活動をやらせてもらってます。

ちょっとねゴミ、なんだかんだ拾ってますからね。今日めっちゃしゃべってますけど、めっちゃ拾ってますからね。なんだかんだありますね、ゴミが。細かいやつが。ただこれ、本当に面白いなって自分で思うんですけど、しゃべりが盛り上がってくると自分がどこを歩いているか分からなくなるんですよね。足が勝手に動いてて、手が勝手にゴミを拾っているっていう。冒頭でね、しゃべる方に意識が向かないんで、視覚情報に奪われてるから何しゃべってるか分からなくなるみたいな話をしましたけども、しゃべりがテンション上がってくると、しゃべりの方に意識が入ってるから、今度体の方が何してるか分からなくなっちゃってるよね。今気づいたら陸上競技場の前にいて、なんでここにいるんだろうって今そういう気持ちですね。こっちに向かって歩いてきた覚えはないんですけど、気づいたらまた陸上競技場の前に今いますね。

大きな何かに情報を握られてしまっている世界から、一人一台スマホを持ってね、それぞれの情報の海に飛び込んでいく世界に移行しきったんだなぁみたいなことを電車で感じたし。みんなが見たい現実を見てるのは古今東西変わりませんが、それがより強化されていって、見たい世界を正しいとより思わされる世界みたいなのが、人と人の分かり合いなさを加速させていて、ちょっとどうなんだろうっていう課題意識があったんですけど。新聞との対比で、水上さんの一言でですね、いや確かに、何かに情報が牛耳られてて、みんなが同じ方向向いてるのも、それはそれで気持ち悪いなっていうことも思えたんで。改めてこのカオスなバラバラの世界の中で、自分ができることは何なのかっていうのは公園活動なんですけども、その公園活動でできることはどういうことがあるのかっていうことですね、見つめ直すというか、いい機会になったし。自分が今公園活動できてるのもこの時代ゆえにっていうことだと思うし。いろいろね、すっきりした会話でした。

ていうか、面白いことがあって。その電車でそういう、昔は新聞だったんでしょうねとかいう話してたって言いましたけども、1駅2駅ぐらい乗って、水上さんが先にね、ご自宅の最寄りの駅っていうか降りる駅になって、先に降りてお疲れ様ですとかって言ったら…僕の隣にね、水上さんがいて席を立って行ったんですけど、その水上さんと入れ違いで乗ってきた女性が僕の隣に座ったら、知り合いだったんですよね。そんなことあるっていう。この広い東京で、人がもうね、顔がない人がいるというか、無限に人がいるなみたいな、人を人と認識するのが難しいぐらい人がいる、この街の中で知り合いが隣に座ってくるっていう。この奇跡みたいな。面白かったですね。

東京出てきたんですか? そうなんですよ、実は私この辺住んでるんで。そうなんですね、僕もこの辺住んでるんで、また今度飲みましょうみたいなことを言いながら解散しましたね。ずっと転職するって言って、ブラック企業みたいなところを勤めてあって、みんなで心配して、本当にもう辞めれるんだ、やめた方がいいんじゃないですかみたいな、もう辞めたいんですけどねとか言いながら、もう何年ですかね、なかなかこう、そう言いながら辞めずにずっと頑張って。いい頑張りかというとちょっと危ないですよね。ブラック企業で本当に、休みの日も働いて給料も安くて、責任も全部自分のせいにされてみたいな中で、それはちょっと本当にやめた方がいいって心配してたんですけど。久しぶりに会ったら、実は転職したんですよって言ってあって、すごくいいニュースを聞けましたね。割と大きな会社に転職されたってことだったんで。そんなね、このご時世ですから、ある程度大きな会社であれば、そんなブラックってことも、少なくとも過去の会社よりはブラックじゃないでしょうし。給料もねアップしたみたいな話でしたから、本当に良かったなぁなんてね、思いました。

そういう世界の、ありていに言うと分断というか、一人一人が全然違う世界を生きている。こうしてね、でもその物理世界でパッと隣に知ってる人が現れて、近況を聞けて、そうなんですねなんて言いながら、人と人がこう繋がってる瞬間みたいなのも感じられて。あーやっぱり顔の見える関係の中で自分は人と関わっていく、そしてその関われる場みたいなのを公園という形で作り続けていく。本当そういう、親友になる必要はないし、変な話、一緒にプロジェクトをやる必要もないし、お互いに責任を負う必要もなくて。そうやって顔を見て、あーなんか最近元気ですかって、あー最近こうなんですよみたいな、あー大変ですねーとか、あーそれは良かったですねーって、そんな会話ができるだけでも、とてもね心が軽くなるような感じがしたというか。すごく繋がりの中で、繋がりを感じられて、あ、今自分はこの社会に生きているんだなみたいな感覚が持てたんで。そういう話をした後だったのもあって、すごくいい気分になりました。

うん、なんでしょうね。まあだから、もうちょっと終わろうかなと思ってますけども、もう一回最初に戻ってくると、別にサービス精神なんかなくたって、相手から奪ってやろうみたいな、自分が得してやろうみたいな、テイカーみたいな視点を基本ゼロにして。別にギブの精神みたいに言いましたけども、別にギブじゃなくても、テイカーでなければいいということですよね。ニュートラルでいいんだと。そうやってお話をして、お互いの存在をね、認め合っている状態があるだけで、人は十分、社会の中の一員であるという感覚が持てるかなと思いますんで。そうすれば自分自身が、今の生活で、この社会っていうのがあってみたいなことを実感として感じられると思うので。それの積み重ねな気もしますから、やっぱり顔の見える人たちを大切にしながら生きていくっていう、そういうことに尽きるのかなと最近は思っていますね。

というわけでございまして、公園活動しっかり、またこの公開収録、ゴミ拾い公開収録しっかりですね、リアルの場でお会いできるようなというか、ぜひいつでも来てくださいという場をね、開き続けていきますんで。本当にタイミングとか気分とかいろんなものが整ったいい時があればですね、ふらっと遊びに来ていただけたらと思います。僕のこと全然知らない、ポッドキャスト聴いてるだけだから全然接点もないし、行っていいのかなとか思う人もいると思うんですけども、気にしないでください。僕のポッドキャスト1個でも聴いてて、僕がこういうことを思っている人なんだってことの、イメージだけでも持っていれば多分大丈夫というか。そんなに僕のことを知らなくても、なんとなくな感じで来てもらったら大丈夫かと思いますんで、気軽に遊びに来てください。

というわけで、本日は以上ですね。ゴミを捨てて…ちょっとゴミ箱があるな。ゴミを捨てて帰ろうと思います。存在としての公園を応援してくださる方は、ぜひメンバーシップ「存在としての公園」にご登録いただけると嬉しいです。それではまた、ご安全に。と言ったところで、めちゃくちゃゴミがいっぱいあったんで、ポイっちょって帰ります。