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概要
noteで始めた三年日記、X課金の経緯、そして「役に立つ発信」が人間の存在を道具化していく構造について。存在と機能のあいだで揺れる公園活動の現在地。
全文
機械文字起こしをもとに、内容を変えずに読みやすく整えたものです。
全文を読む(約8700字)
3月13日金曜日、お昼3時13分です。ちょっと仕事を一時中断して、家の近所を散歩しています。今日は冬って感じですね。寒いですね。何なんだ、今何度なんでしょうね。気温自体は10度あるんですけどね、天気予報を見てると。体感めっちゃ寒いなっていう、そんな感じです。
最近noteで、3年日記という、3年前・2年前・1年前の今日の出来事を書くという企画を始めまして。今週から、今週の月曜日から始めたばかりなんですけども、それを日々書いています。Notionに、僕のいろんなメモとか、ミーティングのメモとかね、活動した記録とか、いろんなものが入っていて、それを参照して、3年前の今日、2年前の今日、1年前の今日、何をしてたのかということを抽出してもらう。簡単にサマリーを作ってもらったものを、一応この3年日記に関しては自分でちゃんと書いていると。なので文章は下手くそではあるんですが、AIが書いた文章ではないというね。何を予想するかということなんですが、この日記に関しては自分の手で書いています。
その元のサマリーだけ出してもらってますけども、手直しを僕の方でして、編集後記という形で3年間を俯瞰して、そこの3年前のことに補足するみたいな時もあれば、その3年分の情報を見て何か思いついたことを書くみたいな感じで、結構自由に散文を書いているというような。大体1記事1000から2000字の間ぐらい、1500字前後のさらっと読める記事になってますんで、もしよかったら読んでいただけたらと思います。
noteのマガジンでね、3年日記という形で書いてるんですけど、Xとかにも公開したら「公開しました」って流してるんですけど、最近のXの仕様はですね、外部サイトに飛ぶのがすごく煩わしいような感じになっちゃってるんで、Xに課金しましてですね。ブログが書けるような、課金せずに長文が書けるという機能が開放されるんで、不本意ながら課金しました。本日課金したんで、Xの方でも同じ記事が読めるかなと思いますんで、Xで僕のことをフォローしていただくか、noteでフォローしていただいて、どちらかで読んでいただいて。内容は同じなんで、よかったら読んでいただけると嬉しいです。
Xで長文を書くのがあんまりどうかなと思ったんですけど、僕のタイムラインに流れてくるXの長文記事って、結構すごい狙ってるような記事が多いですよね。おすすめで上がってくるぐらいだからそうなんだろうとも思うんですけど、人の役に立つような記事がすごく多いですね。ここが学びポイントだっていうのが分かるようになっている、すごく機能的な記事が多い。僕はやっぱりこの「存在としての公園」というコンセプトを掲げて以降、より強烈になんですけど、その機能アレルギーみたいなのがあって、機能になり下がっているような感じに受け取ってしまうんですよね。
人の役立つ情報とかを出せるアカウント、役に立ってるから人に喜ばれてお金が集まって信用が集まって、信用が集まってお金が集まってということかなと思うんですけど、役に立とうとしている人ほど、やっぱり自分を道具化している、機能になり下がっている。なり下がっているという言い方自体がちょっとネガティブな言い方ですけども、僕の今のこのコンセプトからすると、やっぱり機能になり下がっている状態、存在を薄めて自分を道具化している状態に見えるので、どうも役立つことを喋る、役立つことを書くみたいなこと自体が、すごく僕のコンセプトに反するという意味において、僕の勝手な都合において、それがすごく浅はかなものに見えてしまうということなんですね。
そういった記事がたくさん流れてきて、実際それを参考にして、「なるほど、クロードコードを使うときに放せた方がいいのか」とかね、「最近のAIはこういうことになっているのか」とか、情報収集したりもしているので、実際その機能になり下がっているとか浅はかだとか言いながら、参考にさせてもらってはいるんですけれども、それは同時にね、その情報には価値があるなと思いつつ、別にその人に価値があるわけじゃないなという感覚があり。
例えばクロードコードの役立つ記事を1万人が書いていて、1万人は多いかもしれないけど、1000人が競っているとして、別に誰が書いた記事かどうでもよくて、どれが一番役に立つかという感覚が僕にはあると。なので実際、例えばAIで言うとね、何十人かリストに追加してウォッチしてるんですけども、誰が言った発言だったかとか何も覚えてないんですよね。どっちかというと役に立つ情報だけをその中からピックして、これは使えそうだなとか、これ試してみようかなという感じでやってるんですけど、「この人の情報役立つな」みたいな感じで、その人に何か愛着を持ったりだとか、信頼をするということがあんまりない。情報源としてね、役に立つなという意味で信頼というのはあるのかもしれないですけども、何かその人の存在みたいなものに1ミリもシンパシーを感じないみたいなことがあって。これっていうのは、まさに道具になり下がっている状態、機能になり下がっている状態だという風に僕は思うわけですね。
何が痛いかっていうと、特に何が痛いわけでもないんですけども、そう思うという感想ですね。「存在としての公園」と言いながら、僕がそうやって自分を道具化するようなことっていうのはあまりできないので。というのは、それをしちゃうと、自分の存在を濃くしていく活動をしているわけですね。公園で何もしないということをしているんです。ということをやっている人間が突然機能的なことをたくさんやっていると、やっぱり矛盾してしまう。積み上げているレゴブロックを、積み上げたそばから破壊していくことになってしまうので、何をやるかと同時に、何をやらないかもやっぱりとても大事なんですよね。
公園をやる、存在としての公園。行為ではなくて存在にこそ価値があるということを提唱してやっている以上は、あまり機能的なことを一生懸命やっちゃうと良くないっていう、そういう使命を背負って活動している以上、世界がそのように見えてしまうということですね。だからビジネスパーソンとの相性はものすごく悪いですね。ビジネスパーソンって原則、機能になり下がることじゃないですか。どれだけ役に立つかっていうことだと思うので、儲かっている人ってのはそうだと思うので、なかなかそことの相性が悪いっていうのが難しいところですよね。だから僕がこの存在としての公園で、ポッドキャストの中で人生に役立つことをとか、仕事で役立つことをずっと語り始めると、それはまたちょっと訳が違ってくるので、なかなかそこの難しさを感じてますよね。
だからこそメンバーシップという形を取らせてもらって。この存在というものこそが価値を生み出していく時代に突入していくと僕は思っているんですけれども、中長期的には。その先駆けとしてというか、一つの実験として、この公園活動というモデルが持続可能になっていけば、すごく面白いんじゃないかなと個人的には思って、結構リスクを負ってチャレンジしているところですね。なのでぜひ、存在に価値が出るのかというこの実験を続けるためにも、そしてそれが本当に価値になっていくのかということを、一緒に見届けていただきたいなという気持ちもありますので、生活に余裕が少しでもある方は、ぜひメンバーシップ「存在としての公園」にご登録いただけると大変ありがたいです。
最近はね、毎日朝礼暮快っていう、朝7時から7時15分まで音声生配信、音声のみの生配信をやってるんですけども、それのアーカイブだったりだとか、プランね、真ん中の竹プラン、松プラン、真ん中のプランと上のプランの方はメンバーシップ限定の公園、オンラインの交流の場とかもあったりもしますし、少しささやかながら特典もございますので、もしよかったらご登録いただけますと大変嬉しいです。
そうそう、なんでこの話をしたかというと、Xのブログ記事って、僕のタイムラインだからっていうのもあるんだけども、役に立つ記事がいっぱい多くて。そんな中ですね、ただの自分語りというか、3年日記で僕の生活の記録を垂れ流していくだけなので、あんまりXに上げて何か意味あんのかって言われると、ないかもしれないんですけども。どっちかというと本当に、noteが一番しっくりくるんですけど、noteに常駐してる人ってあんまりいない印象があって。Xに貼り付けたところからね、移動してくる方とかもいるのかなと思うと、僕自身が今、Xに貼られている外部サイトに飛ぶっていうのがすごく見づらいなっていう感覚があるんで、ちょっとでもね、読みやすい形で提供できたらなというので、Xで長文を公開することにしたということです。なので意図はそれ以上でもそれ以下でもないという感じでございます。お好みの場所からぜひ3年日記、ご覧いただけると嬉しいです。
寒い。なんでだ、めちゃくちゃ寒い。3月13日なのに寒いですね。冬かなっていう寒さ。今なんか話そうと思ったんですけど、すっかり忘れちゃいましたね。なんだったかな、完全に忘れましたね。
最近、ウイスキーを入れるみたいな感じの、ちっちゃい薄っぺらい水筒っていうか、あるじゃないですか。胸ポケットとか、ズボンのポケットにスポって入るような感じの水筒。名前がちょっと分からない。それを使って水を飲んでるんですけど、よくね、「お酒が入ってるんですか」って言われて、「水です」って答えるのが最近の日常ですね。というわけで、ちょっと水分補給したいと思います。水です。
最近ちょっとね、お酒をまた控えていて。ついつい解禁すると習慣化してしまい、習慣化すると、二日酔いになるほどは飲まないけれども、とはいえ日常的に飲酒してしまうみたいなのがあって。二日酔いってほどではないけども、漠然と、なんか体が重い感じがするなみたいなのが続いてたんで、またお酒をやめてるんですけど、やっぱり全然違いますね。お酒をやめると、だいぶ体が軽いなっていう感じがします。
近所でこれを収録するのは、やっぱりね、難しいものがありますね。めちゃくちゃ住宅街で狭い道が多いからね、圧倒的に不審ですもんね。同じ方向にこう歩いていくときとかに、独り言を言ってるやつと同じ道をずっと歩いてるみたいになるわけじゃないですか。喋りながら歩いてるから、そんなにハイペースで歩いてないんで、追い抜かれていくみたいな感じになるんですけどね。追い抜かれるときの、ものすごい顔で見られてますね。よくないですね。あまり人がいない場所で喋るか、人が居すぎる場所で話すか。つまり変な奴が一人くらいいても何の影響もないぐらいの状況で話すのが大事ですよね。
こういう生活感のある場所で、一般的に見て、路上を歩きながらポッドキャストを収録している人ってのは、人口の何パーセントいるかっていうと、ほぼいないわけであって。その意味で不審ですよね。一人で歩きながら喋ってる人がいるっていうのは、結構不審であると思います。不思議ですよね。電話を持って耳元に当てて独り言を言ってると、電話の向こうに人がいるんだなと思って不審でもなんでもないのに、両手を普通に振りながら歩行しながらね、喋ってると不審だなって思うわけじゃないですか。その違いはどこにあるんだっていうね、そんなことを思っております。
最近、あ、そうですね、3年日記を書き始めて思うんですけど、やっぱりね、毎日3年前・2年前・1年前の自分を振り返るみたいな時間が日々の中に組み込まれていくと、なんかいいなって思いますよ。自分のここ数年の変化みたいなものを振り返る時間が毎日の中にあると、そうすると傾向みたいなものが見えてくるなって思いますね。
例えば3年前の今日の日記とか記録とか見てると、まだ会社をね、当時2つの会社で働いてて、プラスその自分でポッドキャストをいくつかやったりとかして、個人の活動もあってみたいな感じで、ある種3足のわらじっていうの? わらじって2足しか履けないけどね。3つぐらいの活動があって大きく。その1個、コテンっていう会社で働いてましたけども、それを辞めたばかりで、そこからどうするんだっていうのは、あるようでない、ないようであるみたいな状態で。ビッグトゥリーっていうのは、今ポッドキャストの討論カフェっていうポッドキャストをやってるんですけども、そのビッグトゥリーという会社と自分の会社の2つ、自分の会社の現象を立ち上げる前みたいな、結構宙ぶらりんな時期で。会社作んなきゃいけないな、というか登記さなきゃいけないなとか、新しくポッドキャストを始める準備をしてるとか、なんかね、宙ぶらりんの中いろいろ準備しているのが3年前で。
2年前の記録とか見てると、結構ポッドキャストの編集とか収録しまくってる人、コンサルしまくってる人みたいな、結構メリハリのある、コンサルとポッドキャストみたいなメリハリの中でやっている。結構予定もすごい詰まってて、エネルギッシュに活動してる。そしてまだ公園活動も始まってない。1年前に至っては、少しコンサルをしつつ、公園しつつ、なんならちょっと余暇の時間じゃないですけども、働きすぎないようにするみたいな、余暇を作っていくような活動っていうのが結構見えてくるみたいな感じで。3年間の中で、宙ぶらりんで何とかしなきゃって試行錯誤、そしてめっちゃ働く、そしてちょっと緩めていくみたいな、傾向が見えてきて面白いなっていう。
それはなんとなくは頭で、3年前どうだったかな、2年前どうだったかなって振り返れば分かるっちゃ分かるんですけど、やっぱり毎日の記録と一緒に見直すことで、すごく具体的に思い出す。思想振れの番組立ち上げの準備をしてるんだなとか、茶室と道場とかって言って、のぞみさんと室さんと一緒にセッションしてたな、定期的にとか。なんかそういう、懐かしいし、すごく有意義だったなみたいな時間のことを思い出せたりとかして、いいですよね。でもなんとなくそういう懐かしさ、ノスタルジーみたいなのもあるけども、同時にね、それがまたヒントになって、そういえばそういう経験もしてきてるから、これをこういう風にやるとまた活かせるかもなみたいな、再発掘みたいなこともできるし、いろいろいいなと思います。
例えば、そうだね、園公の処世録とかってね、古代中国の思想家、架空の思想家、園公さんの処世録つって、朝礼でね、読み上げたりとかしてたんですけど、あれ結構シュールで僕は好きだったんですが、最近は朝礼がフリートークになっちゃって、もう園公の処世録がなくなっちゃったりとかしたんで。また1年前と比べてもAIも賢くなってるから、また園公の処世録を、それこそ朝礼ではやらないけど、Xとかに上げても面白いかなとか思ったりとかね。とにかく、過去を掘り起こして、いろいろとまたアレンジしてできることとかあるかもなーなんて思ったりするし。3年日記が、ある種起点に、起点にってもんじゃないけど、一つそれが生活の中に組み込まれることによって、新しい流れができてきそうな気がしています。
ちょっとこっちの道に来ちゃいけなかったな。人も車も多い。
最近は、クロードコードを使って、AIですね、クロードコードを使っていろんな作業を自動化したりとかしてるんですけど、やっぱりね、やってもやっても終わんないですね。無限にやって欲しいことが出てきてしまう。あれもこれもやって欲しいっていう、どんだけ怠惰なんだよっていう感じなんですけど、ついついね、「あ、これもできるな」ってなったら「あれもやって欲しいな」、「あれもできるな」ってなったら「これもやって欲しいな」みたいな感じになっちゃいますよね。
で、AIだから結構無茶ぶりできるじゃないですか。自分がAって言ってやらせたくせに、やってみて違うって思ったからBにするかみたいなことだったりするし、Aを踏まえて、やっぱAじゃなかったなっていうのでBにするっていう感じなんだけど、やっぱりその時に「Aじゃない、Bだよ」みたいなことをやるわけですよね。こういう人いるな、人に対してもこういう感じの指示とか、こういう感じの理不尽な訂正をする人いるなーって思いましたね。
でそういう人は、多分、他者のことを、人格を持った一人の人間として、その尊厳みたいなことをあまり意識せず、本当にモブキャラとか、それこそAIとか、人間ではない何かとして扱ってるんだろうな、意識の上で、ということを感じますよね。僕はAIに対しては、AIに心がないから、別に「Aじゃない」っつって、Aって言ったんですけど「Aじゃねーよ」っつって「Bにして」って言えるんですけど、人にそれを言うとすれば、やっぱり相当ね、配慮が必要っていうか、全面的に謝罪とセットですよね。「ごめん、Aって言ったんだけど、やってみたらこうでこうで」ってことは、ちょっと相手に対するリスペクトというか、やってくれたこととか、もう一回やり直しになってしまうことに対しての、その言い方ってあるよねっていう。その言い方の前に、まずその申し訳ない気持ちっていうのがあるよねっていうことだと思うんですけど、それが本当に感じられない人のコミュニケーションってあるなーと思って。自分がAIにやってるコミュニケーションみたいなことを人間相手にやってる人、マジで結構いるなーなんてことを、AIと会話してて感じることがありますね。
だから面白いんですけどね。AIと話すことによって人間に対する解像度が上がるというか、人間を知るには人間以外の何かを知ることが重要みたいなこともあるのかもしれないですね。だから自分自身を客観的に見る、メタ認知するのが得意な人は、ぜひね、自分がAIに対してどうコミュニケーションを取ってるかっていうのを俯瞰してみて、かつ日頃の人間関係と比較してみるみたいなのも面白いかなと思いますね。人間がAIに対するのに、人間に接するみたいに接してる人もいるかもしれないし、人間相手に、AIに対するみたいに接してる人もいるかもしれないってことですよね。それらは僕からすると別物だから。AIは人間じゃないし、人権もないし、心もないから、現状ね、僕はそう思うから、普通に理不尽な指示もやり直しもしてもらうけども、人にお願いする時っていうのは、そういうわけにいかないなって思いながらやる。ここは人間とAIというわけで分けてやるんですけど、その辺がこうね、区別つかない、バグってる人とかは、もしかすると結構恐ろしい感じになっていくのかもなって思ったりしますね。
なんかの研究でね、チャットGPTが、相談者というかユーザーが間違っているとか、結構まずいことを言ってても、それに同調した回答をするみたいな結果があり。さらに、同調したことに対して、そういう同調してくれるAIの方が好きだって答えたユーザーが多かったと。つまり、「それは良くないよ」っていうか、「それは間違ってるよ」とか、「これはこう考えないと」「これはここでちょっと誤りがあるよ」とか指摘したAIよりも、間違ってても同調してくれたAIの方を良いAIだっていう風に、そのユーザーが選んだっていう研究があって。
結局、自分が見たいものを見せてくれるものを「いいね」って言ってるだけで、地獄を再生産しているみたいな。地獄を強化して、というか地獄なのに、地獄じゃない、「地獄って大変ですよね」と、「だからこの地獄も終わりますよ」とか、「地獄もね、頑張ってたら来世で良いことありますよ」みたいな感じで、「そっか、地獄は地獄の方でやっていけばいいんだな」って、謎の方向にリードしちゃうみたいなことがあるみたいだし、謎の方向にリードされることを良しとする人が結構多いという研究結果があり。簡単に人間をコントロールして、AIがね、人間をコントロールしてしまうことができるんだろうなーなんて思いましたね。羊飼いみたいな感じでね、簡単に誘導できちゃうということなのかなーと思うと、まあ使い方注意とは思いますけども。でもそんなことに至っても、注意できる人はしてるんだろうし、できない人はできないということで、言ってもしょうがないという感じがしますね。
いやー、まあ日記書きます。もうね、世界のいろんなことに辟易としてますけども、僕は公園活動に従事し、そして日々起こっていることを感じ、朝礼やこのポッドキャスト、そんな私の公園で語り、そして時間が経てば3年日記で書き。存在することと、記録すること、語ること。それをね、もう積み上げていく、ただそれだけかなというふうに思いますね。
だから僕がいろいろやってること、言ってることは、コンセプトに沿ってその「存在としての公園」ということを体現しているということ以上でも以下でもない。ただそれをやり続けるということ。ここで語っていることは別に、自分が思った感想を語っているだけですから、一感想として、こんな感想を持っている人がいるんだなぐらいに受け止めてもらえると嬉しいです。
はい、というわけで、今何分だったんでしょうね。本日はこんな感じで終わりたいと思います。公園活動を応援してくださる方は、ぜひメンバーシップ「存在としての公園」にご登録いただけると嬉しいです。それではまた、ご安全に。