存在としての公園 第50回

正論

/ 26分20秒

聴く


概要

正論を言う傲慢、言わない傲慢。


全文

機械文字起こしをもとに、内容を変えずに読みやすく整えたものです。

全文を読む(約8100字)

5月22日金曜日、夕方4時32分です。昨日、今日と雨が結構降ってですね。朝の太極拳、毎朝5時40分から、雨だろうが暑かろうが寒かろうがやってる太極拳があるんですけども、それが昨日今日、雨で大変でしたね。今朝は雨が止むっていう予報だったんですけど、ちょうど僕が家に帰ってくるまでの間ぐらいが土砂降りで、家に帰ったあたりからだんだん雨が止んで、今夕方現在はですね、雨が止んで曇り空という感じですけども。気温が数日前と比べて10度以上下がったんですね。今15度くらいなんですけど、天気予報を見た感じ、先週末とかはもう30度いかない、28、9とか、そんな気温でしたから、12、3度寒いって感じでね。結構肌寒い。外を今歩いてますけども、肌寒いなって感じの天気です。風もちょっとあるんで、もしかしたらマイクに入っちゃうかもしれないんで、ご了承ください。

ついさっきまでですね、討論カフェってポッドキャストをやっている株式会社ビッグトゥリーっていう会社で僕は働いているんですけども、そのビッグトゥリーの中でDコートっていうね、小学生、中学生、高校生を対象にしたディスカッションの教室を運営しているんですけども、その教室のスタッフ勉強会みたいなものを毎月開催してます。オンラインコースと対面コースがあるんで、隔月って感じですかね。対面を2ヶ月に1回、オンラインを2ヶ月に1回って感じで勉強会を開催してます。勉強会の内容としてはですね、日頃そのレッスンとかで気になったこととか、うまくいかなかったこととか、成功事例とかも含めてですけども、その現場で感じたことを持ち寄って、そこからみんなで議論して共有の知にしていこうというような場なんですけど。

後半はですね、スタッフで価値観の交換をしようということで、討論カフェのポッドキャストを聞いてくださっている方とかはわかると思うんですが、テーマでそれぞれ価値観を出していこうよっていうようなやつをやるんですね。結構その、会社とかでそういう価値観の交換をするって、おいおいと、社長とか取締役とかがいる中で、なんかそんな意見言えって言われても言えねえよって思うと思うんですが、ビッグトゥリーは僕が観測する感じではですね、そんなにみんな言いづらいっていう感じもなさそうな、それぞれ思ったことを言ってくれてるなっていう感じはしておりますが。まあそういう価値観の交換の時間っていうのがあります。

そこで今日は、正論がテーマでしたね。正論が人を救うとき、人を追い詰めるとき、みたいなテーマだったかな。で、話をしてたんですけど、みんなそれぞれいろんな事例というか、そういうときに正論を言ってしまう、恋愛関係、友達の恋愛相談とかだとつい正論を言ってしまう、恋愛カテゴリーだと言ってしまうんだっていう人がいたりだとか、何かと正論を言ってもらった方が助かるっていう人もいたりだとか、正論は絶対に、もう言ってもろくなことないんだから言いませんっていう人もいたし、いろんな人がいて。

で、僕自身はですね、若い頃、散々正論しか言わないような、今もあんまり変わんないかもですね、こういう表でしゃべるときには正論を言いがちっていうか。だけど対人関係において、正論っていうのはあんまり言わなくなりましたね。言わなくなりました。というのも、最初はその、正論を言わなくなった最初の頃っていうのは、相手を傷つけてしまうというか、不快にさせてしまうんだなっていうことを最初に気づいて。すぐに気づけた話なんですけど、20代になって、なんかやたら、自分は別に理屈で考えたら分かるようなことを言ってるだけなのに、事実を言ってるだけなのに、なんでそんなに怒られないといけないんだろうとか思ってたんですけど。でも相手にもその事情とか気持ちとかがあるから、事実がどうであるかとか、そういう話だけじゃないんだっていうこと、個別の事情とか気持ちがあるんだっていうことを受け止められるようになってきたのが、20代後半から30代にかけてって感じだったのかなと思いますね。

で、そうやって個別の事情や気持ちを考えていくと、およそ正論っていうのはほとんど意味がないっていうか。例えば何がありますかね。家に物が多すぎるって人がいたときに、正論で言えば、物を捨てろっていうのと、新しく物を買うな、以上じゃないですか。物を捨てればスペースは空くし、物を買わなければそのスペースが汚染されないので、まず捨てようと。捨てるのも、例えば1年使ってないものはもう捨ててOKですみたいな、そういう基準を設けたら結構捨てれるよねみたいな、その判断はできるよねみたいな正論になるんですけど。でも実際には、いやでもこれは使ってはいないけど思い出があるしなとか、使っちゃいないけどこれこの人からもらったしなとか、使っちゃいないけどなんかこれ高かったしなとか、いろいろあるわけですよね。いつか着るかもだしなとか。いろんなことを思って捨てられなかったりすると、だから正論としてはもう終わってるわけですよね。もう捨てればいいって言ってるし、1年使ってないものは捨てればいいって言ってるんだけど、そうじゃなくて、そこには個別の事情や気持ちがあって、だから捨てられないんだと、だから家に物が多いんだって話だから、そこに捨てればいいよみたいなのはあまり意味がないんですよね。

みたいな感じで、考えたら分かることは大体みんなも考え終わってるっていうか。例えば30万円収入があるけど毎月35万円使って、マイナス5万円ずつ貯金が減っていってますって人がいた時に、じゃあなんで35万円出ていってるんだっけって現状を把握しましょうと。徹底的に明細を見て、何にいくら使ってるのか見て、どこに無駄があるかを確認し、削れるものから削っていこうみたいな。その削る時の基準としてはこういうカテゴリーとこういうカテゴリーとみたいな。別にそういうことを言うのは簡単なんですけど、でもその35万円使いたいっていう気持ちですよね。これもやりたい、あれもやりたい、結果35万円になってるみたいな人に、正しさを伝えたとてしょうがないというか。ある意味その、マイナス5万円でもその35万円使うことは正しい、正しいという可能性さえあるっていうね。難しいですよね。

とか、なんですかね、朝起きれない、朝バタバタしちゃう、朝の時間に余裕がなくてっていう人がいたら、じゃあ別に1時間早く起きたらいいじゃんみたいな、2時間早く起きたらいいじゃん。これも正論ですよね。その時間に起きたらその分時間が生まれるんだから、起きればいいじゃないって話なんだけど。これは僕も長年そうでしたけども、朝起きれない。頭では、朝起きたら朝に時間のゆとりができて、自分のペースが作れて、きっと、なんていうの、そのペースを自分が、主導権を握るじゃないですけども、1日のペースを自分がコントロールしてる感じになって、すごくいい流れになりそうだなって頭で分かってる。けども、じゃあ実際朝が来ると起きれないみたいな。だから、頭で分かってるからできるわけじゃないっていうのは自分も身をもって分かっているし。だから人にそれを言うことの意味って、なんかあるのかな。言いたい、それ以上のことがない気がしますよね。

なんなら、言ったら相手は、なんでしょうね、例えばその物が捨てられない人がいるときのパターンだと、まあ捨てればいいと思うよ、捨てる基準をこうすればいいと思うよって、ちょっとでも物を捨てさせようとするやばい奴みたいに、正論を言った人をやっぱり攻撃したり、なんていうんですかね、軽蔑したりっていうのがよくある。とか、不快感をあらわにするとかね、怒るとかいうことがよくあるので、意味がないどころかですね、害があるという。正論を言うことで相手の気持ちを逆撫でしてしまうみたいなことがあったりするので、個別の人間関係という意味において、正論を言うことがほとんど意味がないっていう。正論を言って、ありがたがられて、そして相手の行動が変わるってパターンは、確率で言うと何パーあるんでしょうねって感じですよね。1パーあったら良い方って感じじゃないですか。1%を多分下回るんじゃないかっていうぐらい、正論って刺さらないですよね。

せいぜい、そうなんですよねって受け止めてくれるみたいなレベルで。でもそれって正論だからぐうの音も出ないだけで、でも内心傷ついてないとかね。物が捨てられない自分は、部屋が散らかってる自分はダメな人間なんだみたいな、自己肯定感を下げてしまうみたいなことにもなりかねない。その人の自尊心を傷つけてしまうことにもなりかねないから、やっぱり、百害あって一利なしまで言う気はないけども、成功率1パーかのよくわからないアプローチっていう感じですね、正論はね。

僕からすると、それは個別の人間関係の話だなと思う。もうちょっと引いてみた時には、やっぱりその、方法はどういうやり方がいいか分からないけども、その正論の方にどうにか分かってもらって、どうにかその行動を改めてもらわないとやばいってこともあるわけじゃないですか。例えば、酒の飲み過ぎは良くないですよって正論ですよね。けど、お酒を飲み過ぎちゃダメなんて誰だって分かってると。でも飲んじゃうんですっていう人がいて、本人が飲みたいからまあいいよねって、正論を言ってもしょうがないしな、もう酒を飲んじゃダメなんて誰でも分かってることだし、わざわざ酒を飲み過ぎは良くないよって言ってもなって放置してると、その人が肝硬変になって大変なことになりますみたいなことはあるわけで。どうにかしてお酒を、なんですかね。

その人が本当に覚悟して、いやもう自分は速攻死んでもいいんでとか、それによって家族に心配をかけたいだとか、仕事を早く離脱することになったとしても構わんと、自分は酒が好きで好きで、そのために生きているから、もう死んでもいいから酒を飲む、みたいな覚悟を持って酒を飲んでる人はもうしょうがないと思うけど、あんまりそこまで覚悟して酒を飲んでないと思うんですよね。ついつい楽しくなって飲んじゃうんですよね、とか、そこまで悪いと思わなかったとか、こんなことになると思ってなかったみたいな、頭じゃ分かっていたけどこんなにとはね、みたいな。健康診断でいつもその数値に引っかかって、精密検査でずっと引っかかってるんだよとか言って笑ってる人とかいますけど、覚悟が決まってるならいいけど、単純に現実感がないだけみたいな人もいるし。じゃあどうにかそのお酒を減らしてもらえるように何か、自分の大事な人がそれだった時にね、どうにかできないかなって思うのは自然なことだと思うし、どうにかしなきゃなってあるわけですよね。

だから、どうにもしない、正論を言ってもしょうがない、本人の問題だしなっていうのは、一見その、その瞬間を見ればやっぱり圧力もないというか、相手に不快感を与えず、どうぞどうぞお酒飲んでくださいってやってた方が気持ちよくコミュニケーション取れるんだけども、早く死んじゃうっていうことがあるわけで。そこまでセットで本人の望みならいいけども、そうでない場合に果たして、どうぞどうぞ飲んでくださいっていうのがいいのかな、どうなのかなっていうね。

今の社会、社会とかまでいっちゃうとちょっと主語がでかいけど、でも社会の空気としてはやっぱりその、他人の行動にあんまり物申すっていうのは良しとされない風潮ありますよね。友人がそうやって酒を飲んでて、もう肝臓の数値も悪くて、でも生きたいとは思っていてみたいな時に、もう酒飲むなよって、やめとけよって、そんな言い方じゃなくてもいいんだけど、どうにか、割と無理やりお酒をもう取り上げるというか、減らす方向にアプローチするっていうのは、今の感覚からすると大きなお世話とか、人の権利を奪っているとか、傲慢とかっていう風に評価される気がするんですけど、どうですかね。そうでもしないと行動を改められない人っていうのもいると思うし、なんだかなっていう感じがしますよね。

でその時に、その友人から、お酒を飲んでる友人から反発を受けるのはもう目に見えてるじゃないですか。なんでお酒取り上げるんだよって言われるわけじゃないですか。でもそこまでして友人の体のことを思ってやるっていうのも、人情とかね、友情とかね、そういう人と人の繋がりのような気もするし。まあ難しいよねって思いますね。

ここまで話しておきながら、僕としてはですね、別にそういうことは言っていかないスタンスというか、本人の問題だしなと思って、肝臓の数値が悪いと言いながら酒を飲みまくってる人がいても、別に何にも言わないと思うんですよね。それが死に直結しているってことは、リアリティはないにしても頭で分かってるだろうし。そこから、まあでも要はリアリティをどう持つかの話でしかないから、そのリアリティを持たせなければっていう、その使命感がやっぱりちょっと僕からすると、傲慢というか。現代の、どちらかというとその空気に近いんですけど、僕の価値観も。傲慢なのかなっていう風に思ってしまって、あんまり他者に介入するってことをしない。そういうモチベーションが湧いてこないですね。

だから、正論が人を救うとき、追い詰めるときっていうのは、結論よくわからないですね。本当にケースバイケースすぎるというか、あんまり法則はなさそうな気がしますね。抽象的な言い方をすると、本人のリアリティの問題というか、本人にまず問題意識があるかどうかっていうことが一つと、次にその本人に伝わるような抽象度で、本当に必要な情報の、なんでしょうね、その抽象度なんですよね。具体的すぎても細かくてうるせえってなるし、抽象的すぎても、なんだよってなるしっていう。そのちょうど刺さる抽象度みたいなのがあるなと思うんで。問題意識と抽象度と、あとはもう関係性ですよね。それを言われても、言われてしかるべきだなとか、自分のパートナーに言われるんだったら分かるとか、親友に言われるんだったら分かるとか、上司に言われるんだったら分かるとか、誰に言われるかみたいなことが重要だったりしますよね。だからそういういろんな変数があって初めて、その正論がいい風に刺さる時もあるし、それだってハマらない時はうるせえっていう方になっちゃうしっていう。

だからそうだね、正論が刺さる確率が1%以下っていったのは、まさにそういうとこなのかもしれないですね。まずその、言ってる内容をどれぐらいの抽象度で伝えるのかとかいうこととかね、関係性だとか、相手の問題意識だとか、なんだかんだとめちゃくちゃ変数が多い中で言ってるから、中身、その主張としては正論であっても、正しい感じに入っていかないってことが、情報として入っていかないってことがありますよね。だからそういうガチャを引き続けるみたいなことを、しかも怒られながら、相手を目の前で不快にさせながらガチャを引き続けるみたいなことは、やっぱり僕にはあんまりできないというか。それが人情というものだとか、それが人と関わりを持つということだとか言われても、僕はそう思えませんという感じですかね。

僕としてはやっぱり、誰かから何か言われたから気づくとかっていうことはなくて、誰かから何か言われて気づくこともあれば、雨が3日続いたことによって気づくこともあるし、朝、自転車がパンクしたことによって気づくとか、ニュースである事件の報道を見て気づくとか。何で気づくかってことは、気づくってのはそのリアリティを持つことにやっぱり近いんですけど、ハッとね、なんかありありと分かるぞみたいな感覚に突然なるっていうのは、別に言語で伝えたから、コードとしてね、AはBであるみたいな話をした時に、わあ、全てが繋がったなんてことはあんまりないですよね。あんまりない。それが成立するのは、特に言葉が刺さるみたいなパターンっていうのは、もうすでに分かってることですよね。言葉になってないだけで、感覚的にはすでに分かってて、リアリティを持ってて、言葉になってないだけのものを、たまたま言葉として言い当ててくれた人がいるという、言語化してくれて気持ちがいいっていうだけの話で。その場合っていうのはもうすでに、その物事とかその考えに対してリアリティを持っているから。やっぱりその、持ってない人に言葉で持たせるっていうのは、やっぱりちょっと難しいんだと思いますね。

はい、そんなことを思いました。そうですね、その勉強会の最後に、最後の感想を言うんですよ。今日の勉強会どうでしたかみたいな、どうでしたかっていうか、一言感想を言って終わりましょうみたいな時間があるんですけど。その時にね、改めて思ったんですけど、僕は今その、Dコートっていうね、子供たちのディスカッションの教室、現場に出ていないので。教室が福岡にあるし、自分は東京にいるし、基本的にはこの勉強会とか、その経営判断みたいなところで、経営会議とかね、やって、現場を握りたいと。だからやっぱり勉強会で喋る僕の内容っていうのは正論になりやすいというか、記録に残っている情報とか、発言された内容、まさに言葉を拾って、その言葉から想像される状況から、であればこうなんじゃないかみたいなことを言うわけで。現場の感覚からすると、やっぱりその現場の事情とか気持ちとかもあるから、言ってることは分かるけど、そんなこと言われてもなってやっぱりあると思うんですよね。だからその感覚って、やっぱり僕は現場にいないだけに、現場の人が感じている、なんですかね、その感覚みたいなのがあると思うので、そこを捨象して、抽象化して、ただただ合理的な意見を言うみたいな人にはならないように気をつけたいなというふうに思ってますね。

もちろんそれを、仕事上ね、言わないといけない部分っていうのはある。あえて、現場はそうだけども、でも実際ここはこの水準を目指さないとおかしくなっちゃうよねっていう話だとかをしないといけないみたいな。正論を言うっていうのは、あれですね、正論を言いたい人もいるけど、正論を仕事で言わないといけないっていうのも、なかなかありますね。そういうものがね。正論を言った方がいい、言ってしかるべき、なんていうのかな、仕事とかだとそれが起こりやすい。とはいえ事情が、とはいえ気持ちが、と言うけども、ここは押さえないといけないんだみたいなことが起こるということで、仕事には結構正論っていうのがはびこっているのかもな、なんてことを最後に思ったりもしました。

まあ正論ね。正論はあんまり力を、昔から持ってなかったのかもしれないけども、正論の立場の弱い時代になってきたなというふうには思いますね。僕自身も正論から離れて、どんどんどんどん離れていっているというか。ある種の自分の心地よさとか、自分にとっての、社会に何かルールを違反したりだとか害を与えたりしない、なんて言うかな、その、著しく倫理に背くだとか、ルールに背くだってことをせずに、ちゃんとルールの範囲内で、倫理の範囲内で好き勝手にやるってことをですね。自分の、40代男性、日本人男性はこうであるみたいな、ある種のステレオタイプというか、正論化されやすいようなものからは離れて、僕は僕の中の心地よさ、僕はこうだからこうしてるんだっていう、王道から外れていくというかね、いうことを選んでいたりもするので。いかにそれを正しいビジネスの論理で何か指摘されても、やっぱりうるせえって感じになっちゃいますから。その、正論がどうのこうのっていう時代でもないんだろうなってことを思いますね、最近はね。

という感じで、正論について考えた午後でございました。本日は以上です。公園活動を応援してくださる方は、是非メンバーシップ「存在としての公園」にご登録いただけると嬉しいです。それではまた、ご安全に。